そうして何て神々《こうごう》しいのでしょう。妾、ひざまずいて拝みたいのよ」
「お前さんの心が立派だからよ。……立派な心は立派な心を好くよ。私こそお前さんにひざまずくべきだよ」
「でも妾貧しいのでございますの。誰も彼も私を馬鹿にしますの」
「一人だけお前さんを認めているものがあるよ」
「まあ小父様、あなたのことですの」
「いやいや私がお仕えしている方だよ」
「どなたでございますの? ねえ小父様?」
「唯一なる神」
「唯一なる神?」
「お聞きお妙《たえ》さん、聞こえるだろうね」
「…………」
「小慾知足とは反対に、飽くことを知らない強慾者が、みすみす没落の穴の方へ、歩いて行く足音が聞こえましょう」
「小父様妾には聞こえませぬが」
「窓をお開け!」と男の声がした。
「姿を見ることが出来ましょう。その気の毒な強慾者の姿が」
 露路の闇に佇んで、聞きすましていた碩寿翁は、一刹那体をひるがえすと、その家の板へへばり[#「へばり」に傍点]ついた。
 と、すぐに窓があき、娘の顔が現われたが、家内《いえうち》から射し出る燈火《ともしび》の光を、背景としているがために、顔立ちなどはわからなかった。清らかな白い輪廓ばかりが、ぼんやり見えるばかりであった。
 娘は露路の左右を見たが、
「小父様、何にも見えませぬ」
「さようか」と、家内で男の声が云った。
「では見ない方がよいだろう。……そうだ、なるたけ穢らわしいものは」
「ああ小父様、黒い物が見えます。おおおお死骸でございます。若い方の死骸でございます。露路の真ん中に倒れております」
「助けておいで」と、男の声がした。
「可哀そうな不幸な贄《にえ》なのだよ」
 つづいて「はい」という声が聞こえて、窓から娘の顔が消えた。
 と、戸をあける声がした。
 松平碩寿翁は見付けられなければなるまい。
 いやいや碩寿翁はこの時には、既に露地から走り出していた。すなわち窓から娘の顔が、引っ込むと同時に身を躍らせて、露路から外へ飛び出したのであった。

颯と一揮

(あのお方があんな[#「あんな」に傍点]所におられようとは。……俺はとうとう感付かれてしまった! ……俺に恐ろしいのはあのお方ばかりだ。……俺は邸へは帰られない。俺は体を隠さなければならない。……あのお方があんな所におられようとは。いやいやこれは当然かも知れない。……あのお方はああいうお方なのだから。……不正な所へも現われるし、正しい所へも現われる。貧しい所へも現われれば、富んだところへも現われる。そうして「状態」をひっくり返す)
 露路口で立ち止まった碩寿翁は、こう考えて戦慄したが、そういう恐怖よりもさらに一層の、好奇心が胸へ湧き上った。で、手に持っていた包み物の、包みをグルグルと解きほぐし、現われた蒔絵《まきえ》の箱の蓋《ふた》を、月に向かってパッと取った。と一道の鯖《さば》色の光が、月の光を奪うばかりに、燦然としてほとばしり出たが、ほんの一瞬間に消えてしまった。碩寿翁が箱の蓋を冠《かぶ》せたからである。
「おおこの光に比べては、名誉も身分も、財産も生命《いのち》さえも劣って見える。……あれだ! たしかに! 探していたあれだ!」
 感動が著しかったためなのであろう、碩寿翁はガタガタと顫え出した。
 が、その次の瞬間に、碩寿翁を驚かせたものがあった。一本の腕が背後《うしろ》から延びて、蒔絵の箱を掴んだからである。
 とたんに活然と音がして、白い物が月光に躍り上り、すぐに地に落ちてころがった。
 抜き討ちに切りつけた碩寿翁の太刀に、御幣《ごへい》の柄が真ん中から二つに切られ、その先が躍り上って落ちたのであった。
 露路口に立っている女があった。白の行衣《ぎょうえ》に高足駄をはき、胸に円鏡を光らせてかけ、手に御幣の切られたのを持って、それを頭上で左右に振って、鋭い声で喚いている。
 勘解由《かげゆ》家の当主の千賀子であった。
「返せ返せ持っている物を返せ! 久しく尋ねていた我が家の物だ! それの一つだ、返せ返せ! ……刑部《おさかべ》殿々々々、お出合いくだされ! あなたにとっても大切の物が、見付かりましてござりますぞ! ……得体の知れない老人が、持って立ち去ろうといたします! ……お出合いくだされ、お出合いくだされ! ……あッ、切り込んで参ります! 妾は殺されそうでござります! お出合いくだされ! お助けくだされ!」
「黙れ!」と碩寿翁は叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]《しった》した。
「汝《おのれ》こそ誰だ、不届きの女め! 拙者の持ち物を取ろうとする! ……うむ、うむ、うむ、汝もそうか! 汝もこいつを探している一人か! ……では許されぬ! 助けはしない! ……くたばれ!」と、毒々しく食らわせたが、一躍すると颯《さっ》と切った。
 辛くもひっ外し
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