かもしれない。あのお美しいお顔で笑って、あのお上手な口前で喋舌って、丸めておしまいなさるだろう)
 こう思うと京助は嬉しくなった。
(奥様はお偉い奥様はお偉い。それに旦那様は、疑がいながらも、奥様のお美しさには参っておられる)
 で、京助は安心をして、今度は部屋の中を長閑《のどか》そうに見た。
 と、その京助の眼の前の襖《ふすま》が、向こう側の方からあけられて、さっき隣りの部屋へ入って行ったお菊が、手に小さな包物《つつみ》を持って、忍ぶようにこっちの部屋へ入って来たが、四辺《あたり》に気でも配るように、オドツイた眼で部屋を見廻すと、京助の前にベタリと坐った。
「京助や」と云ったが嗄《しわ》がれた声であった。
「これをね、急いで持って行っておくれ。ここにね」と云うと書面を出した。
「行き先の番地が書いてあるよ。で、すぐさま行っておくれ。途中で誰が何と云おうと、よしんば誰が止めようと、決してこれ[#「これ」に傍点]を渡したり、引っ返して来てはいけないよ。書面をお取り、包物をお取り! 急いで急いで急いでおいで」
「はい奥様」と手代の京助は、書面と包物とを受け取りはしたが、お菊の顔付きに不安なものがあって、その言葉つきにあわただしさがあって、全体に何となく不吉なものを、感じさせるものがあったので、飛び出して行く気にならなかった。
 しかしお菊が怒ったような声で、こう続けさまに云ったので、京助は不安ながらも部屋を出た。
「云うことをお聞き! 行っておいで! お前は妾に云ったじゃアないか、どのような無理でも難題でも聞くと。……何でもありゃアしないのだよ。持って行って返辞を聞くだけだよ。そうそう何かを渡すかもしれない。大切に持って帰っておいで。……妾の云い付けを聞かなかろうものなら、お前は明日《あした》からお払い箱だよ」
 ――お前は明日からお払い箱だよ――この言葉ほど京助にとって、恐ろしい言葉はないのであった。
 で、あわただしく部屋を出た。
 が、すぐに邪魔がはいった。
 門口を出て庭へ出て、門から往来へ駆け出そうとして、束《たば》になって咲いている木芙蓉の花の叢《くさむら》の側《そば》まで走って来た時に、
「京助!」と呼ぶ声が近くで聞こえて、
「これ、どこへいく? 持っている物は何だ!」と、続いて呼ぶ声が聞こえたからである。
 で、京助は声の来た方を見た。
 盆のようにも大きな顔には、鈎《かぎ》のような鼻が盛り上っているし、牛のようにも太い頸筋には静脈が紐のように蜒《うね》っている、半白ではあったがたっぷり[#「たっぷり」に傍点]とある髪を、太々しく髷に取り上げている、年の格好は六十前後であったが、血色がよくて肥えていて、皮膚に弛みがないところから五十歳ぐらいにしか思われない。松倉屋の主人《あるじ》の勘右衛門であった。勘右衛門がそう云って呼び止めたのであった。
 と、見て取った手代の京助は、不機嫌らしい顔をしたが、不精々々に挨拶をした。
「へい、これは旦那様で。ちょっと出かけて参ります」
 で、手に持った包み物を、胸へ大事そうに抱くようにしたが、云いすてて門の方へ行こうとした。

邪魔がはいる

「お待ち」と勘右衛門は迂散《うさん》くさそうに云った。
「何だ何だ持っている物は?」
 すると京助は首を振るようにしたが、
「さあ何でありましょうやら、とんと私は存じません」
「で、どこへ持って行くのだ」
 いかにも昔は抜け荷買いなどを、お上《かみ》の眼を盗んでやったらしい、鋭い、光の強い、兇暴らしい、不気味な巨眼で食い付くように、勘右衛門は京助が胸へ抱いている小さな包物《つつみ》を見詰めたが、
「ちょっとそいつを見せてくれ」と近寄りながら、手を延ばした。
 が、京助はうべなおう[#「うべなおう」に傍点]とはしない。後ろへ二三歩さがったかと思うと、
「奥様からのご依頼の品で……持って参らなければなりません。大変お大事の品物のようで。……で、たとえ旦那様でも、奥様のお許しの出ないうちは、お眼にかけることは出来ません」
 奥様の忠実なお小姓として、自ら任じている京助としては、こう云うより他はなかったようであった。
 そうして京助の直感力からすれば、どうやら持っているこの包物は、奥様にとっては秘密な品で、旦那様のお眼にかけることを、欲していないもののように思われた。
(とにかく急いで出かけなければいけない)
 で、京助は駆け出そうとした。
 と、松倉屋勘右衛門であるが、いよいよ迂散くさく思ったものと見えて、京助の行く手へ素早く廻ると、両手を大きく左右へひろげた。
「奥の品物なら俺の品物だ! 見せないということがあるものか! ……どうも大きさがあれ[#「あれ」に傍点]に似ている。さあさあ見せろ! 俺へ渡せ! 何だ貴様は手代ではないか! お前にとっては
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