をしぞ思ふ――業平朝臣《なりひらあそん》の有名な和歌は申すまでもないことでありますが、八ツ橋は名高い歌枕の土地ゆえ、この外にいろいろ有名な和歌が、うたわれていることでございましょうな」
するとお蘭は直《す》ぐに答えました。
「――一筋に思いさだめず八橋のくもでに身をも嘆くころかな。――有名な宗長《むねなが》親王様の、このような和歌がございます」
「成程《なるほど》」
と、左衛門はうなずきました。
「で、私は申し上げましょう。物事はすべて一筋に、思い定めてはいけませんな。……とその他に和歌はございませぬかな」
「為家卿がうたわれましたそうで――もろともに行かぬ三河の八橋に、恋しとのみや思いわたらん」
「成程」
と左衛門はまたうなずきました。
「そこで私は申し上げましょう。恋しと思ってはいけませんとな。……その他に名歌はございませんかな」
「読人知らずではございますがこのような和歌もございます。――打わたし長き心は八橋の、くもでに思うことにたえせじ」
「成程」
と左衛門はまたいいました。
「蜘蛛手に思う恋の心が、突きつめて一つになった時に、恐ろしい一筋の恋となります。ご用心なされた方がよろしいようで」
すると、俄《にわか》にお蘭という娘は、物悲しそうに俯向いて、口をとじてしまいました。蒼いまでに白い額の上へ、俯向いた拍子にもつれ毛がかかって、顫《ふる》えを細かく見せて居りましたが、烈しい感情が胸に起こって、それが顫わせているようでした。
と、その様子をしばらくの間、左衛門は見守って居りましたが、やおら膝をその方へ進ませ長い顎髭を前へ差し出し、さとすような声でいいました。
「死を覚悟していられましょうな? 正直にお話しなさりませ。私は江戸の人相見の、左衛門というものでございますよ。お前様の顔を一目見た時から、お前様の覚悟を見てとりました。でお前様に申し上げます。正直に私にお打ち明けなされ。何んとか私が取りはからいましょう。……恋でございましょう? 思い詰めた恋で?」
するとお蘭は顔を上げましたがこういうと直ぐに俯向きました。
「はい、そうでございます。……一人のお方でございましたら、何んでもないのでございますが……」
「成程」
と左衛門はその言葉を聞くと、苦しいような笑を浮べました。
「二人の男に恋をされて、それで悶えておいでなさるので」
お蘭は黙ったま
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