ので、女房は気の毒な寡婦の身となり、子供は孤児となりまして、家計も貧しくなりました。が、女房は健気《けなげ》にも、他へ再婚しようともしないで、山へ登って行って薪を拾ったり、浦へ出て行って和布《わかめ》をかったり、苦心して子供を育てました。つまり二人の子を養育して、亡き良人《おっと》の業をつがせようものと、辛苦したのでございます。然るに長男が八歳となり、次男が五歳となりました時に、悲しい出来事が起こりました。というのは、或日でありましたが、川の向う岸に沢山《たくさん》の海苔《のり》が粗朶《そだ》にかかっているのを見て、母親がとりに渡りましたところ、後を慕って二人の子供がこれを渡って行きました。と流れが急でありましたので、二人の子供は溺れ死にました。どのように母親が嘆き悲しんだか? 想像に余るではありませんか。で、母親は髪をおろし、尼となって朝夕念仏をし、菩提を葬ったのでありますが、『橋さえかかって居ったならば、このようなことは起こらなかったであろう、どうぞして橋をかけたいものだ。将来人助けにもなるのだから』不図《ふと》こんなことを思ったそうです。と、或日大きな流れ木が、河の岸へ横付けになりました『これこそ丁度幸いだから、この流れ木で橋を架けることにしよう』――で、橋をかけにかかりましたところ、流れが八筋ありましたので、次から次と流れ木を捨って、八ツながら橋をかけましたそうで。そこで八ツ橋という名が起こって、名所になったのでござります」
その時十八九にもなりましょうか、美しい娘が菓子皿を持って、奥の座敷から出て来ましたが左衛門の前へ菓子皿を置くと、しとやかに辞儀をいたしました。
で、左衛門も辞儀を返しましたが、
「ああ……これは……ううむ……悪いぞ」
と、口の中でこう呟いて、まじまじと娘の顔を見ました。
人相見の左衛門でございます。何か娘の人相の中に、不吉の形を見たがために、そう呟いたのでありましょう。
が、彦右衛門には解りませんでした。
「私の娘、蘭でございます」
こう左衛門にひきあわせてから作男へ指図しようとして、庭下駄を穿くと裏手の方へ足早に行ってしまいました。
二
で、縁へは左衛門とお蘭と、二人だけが残ってしまいました。
と、左衛門でありましたが、何気ない様子で話しかけました。
「――から衣きつつなれにし妻しあれば、はるばる来ぬる旅
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