。ここは本所安宅町の、掘割に近い一所に、大きいが古く立っている、京一郎の家であった。その家の奥の座敷であった。更けた夜だのに五月幟が、風になびいている音が聞こえた。近くの家でうっかりして、取り入れるのを忘れたのであろう。
「京一郎やお前はどうしたのだよ、もうそんなことは云わないでおくれ。妾はそんなこと聞くだけでも厭だよ」
母親のお才は四十九歳であったが、勝れた美貌であるところから四十ぐらいにしか見えなかった。そう云ってから京一郎の顔を、当惑と不安と親の慈愛と、それらのもののこもった眼付きで、嘆願するように凝視した。(この子はお父様に大変似ている。思い立ったことなら、何んでもやり通す! ほんとにこの子は妾を棄てて家出をしてしまいはしないだろうか)お才は恐ろしくさえ思うのであった。
「ねえ京一郎や」とお才は続けた。「こんなこと妾が云い出しては、お前はバツを悪がるかもしれない。でも妾は云ってしまおう。誰かお前の背後にいて……そう、それも女がいて、お前に云わせるのではないかえ。そんなように妾には思われるがねえ……」
こう云われて京一郎は横を向いたが、顔がいくらか赧らんだようであった。でも彼
前へ
次へ
全166ページ中94ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング