うような、高名の幾人かの町奉行から「部下」として力にされたばかりでなく「賓客」ないしは「友人」として尊敬されたほどであった。それに彼は学者であった、とは云え天保年間の、大塩中斎というような、ああいう厳《いか》めしい陽明学者ではなく、いうところの軟文学者――いうところの俗学者であった。でその方面の友人には、蜀山人だの宿屋飯盛だの、山東京伝だの式亭三馬だのそう云ったような人達があり、また当時の十八大通、大口屋暁翁だの大和屋文魚だの桂川甫周だのというような、そういう人達とも交際があった。
後世田沼主殿頭が、まことにみじめに失脚した時、それを諷した阿呆陀羅経が作られ、一時人口に膾炙《かいしゃ》したが、それを作ったのが貝十郎であると、当時ひそかに噂された。
※[#歌記号、1−3−28]そもそもわっちが在所は、遠州相良の城にて、七ツ星から、軽薄ばかりで、御側へつん出て、御用をきくやら、老中に成るやら、それから聞きねえ、大名役人役人役替えさせやす。なんのかのとて、いろいろ名をつけ、むしょうに家中の者まで、分限になりやす。あんまりわっちも嬉しまぎれに、とてものついでに、大老なんぞと、これからそろそ
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