。またも彼女はかがみ込み、やがて立ち上がって脱衣場を下りた。何んの変わったこともない。
 しかし程経て潮湯治客達は、あっちでもこっちでも騒ぎ出した。
「おや財布を盗まれたぞ」
「俺も印籠を盗まれた」
「掏摸《すり》が入り込んでいるらしい」
「どこにいる、捕えろ、叩きのめせ」
 しかし彼らは例の娘が、犯人であろうとは気がつかなかった。が、たった一人だけ、気がついている者があった。ずっと向こうを彷徨《さまよ》っている、例の娘を見やったが、
「あの[#「あの」に傍点]お方はあんな大きな仕事を、懸命に計画していられるのに、あいつ[#「あいつ」に傍点]はそれに参画していながら、あんなちっぽけな小泥棒を、こんな所でやろうとは。……親の心|児《こ》知らずというやつだな。大きな計画の方へ眼をつけている俺だ、ああいう小仕事は見|遁《の》がして置こう」
 その人物は呟いた。
 潮湯治客を目当てにして、浜の幾所かに出している茶屋の、その一軒の牀几に腰かけ、茶を呑んでいた武士であって、編笠を冠っているところから、その容貌は判らなかったが、黒|絽《ろ》の羽織、蝋塗りの大小、威も品もある立派な武士であった。
「お
前へ 次へ
全166ページ中141ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング