、大金を得られるというような言葉は。……まして自分の父親などが、そんな歌を知っていようなどとは、京一郎といえども信じなかった。
 で京一郎はそんな方面から、金を得ようとは思わなかった。が、母親が口癖のように、お前が二十五歳になったら、大金持ちになることが出来ると、そう云ったのを知っていたので、その金を今手に入れようと、母親に迫っているのであった。
「お母様お金をくだされ!」京一郎はお才へ迫った。断乎とした執拗な、兇暴でさえもある、脅迫的の京一郎の態度と、顔色と声とはお才の心を、恐怖に導くに足るものがあった。
 食いしばった歯が唇から洩れ、横手に置いてある行灯の灯に、その一本の犬歯が光った。頸に現われている静脈が、充血のためにふくらんでいる。膝に突いている両の拳の、何んと亢奮《こうふん》で顫えていることか! ――京一郎はそういう姿で、お才へ迫って行くのであった。
「京一郎や、まあお前は!」お才は思わず立ち上がった。
「まるで妾《わたし》を! ……どうしようというのだよ! ……」
「金だ!」と京一郎もつづいて立った。
「今! すぐにだ! ねえお母様!」
「狂人《きちがい》だ! お前は! ……おお恐ろしい! 誰か来ておくれ、京一郎が妾を!」
 ――こんなことがあってよいものだろうか! 母はその子に殺されるかのように、こう大声に助けを呼んで、縁から庭へ遁《の》がれようとした。
「お母様!」と追い縋った。
「誰か来ておくれ!」と障子をひらいた。
「逃げますか! お母様! コ、こんなに……頼んでも頼んでも頼んでも!」
 よーし! と猛然と追い迫った時、自然にまかせて生い茂らせ、長年手入れをしなかったため、荒れた林さながらに見える、庭木の彼方《あなた》に立っている、これはそういう林の中の、廃屋さながらの建物の中から、老人の歌声が響いて来た。

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※[#歌記号、1−3−28]かすかに見ゆる
 やまのみね
 はれているさえなつかしし
 舟のりをする身のならい
 死ぬることこそ多ければ
 さて漕ぎいだすわが舟の
 しだいに遠くなるにつれ
 山の裾辺の麦の小田
 いまを季節とみのれるが
 苅りいる人もなつかしし
 わが乗る舟の行くにつれ
 舟足かろきためからか
 わが乗る舟の行くにつれ
 色も姿もおちかたの
 深き霞にとざされぬ
 われらの舟路! われらの舟路!
[#ここで字下げ終わり]

 つれてバラードの楽の音が聞こえた。
「あッ!」とその刹那京一郎は、縁に突っ立って動こうともせず、首を伸ばして聞き澄ました。

        七

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(幽暗なる世界なるかな
蠱物《まにもの》めきしたたずまいなるかな
ここにある物は「現在」の頽廃、ここにある物は過去への思慕、ここに住める物は生ける亡霊、この部屋へ入る者は襲わるべし)
[#ここで字下げ終わり]

 こういう箴言《しんげん》が壁の一所に、掲げられていなければ不似合いである。――と、そんなように思われるほど、この部屋は陰気で悲し気で、他界的で気味が悪かった。
 京一郎の父で塩屋の主、お才の良人《おっと》の嘉右衛門が、十数年来孤独に住んでいる、庭の奥の林の中の、廃屋の中の部屋であった。万国地図と海図との懸かった、一方の壁へ背を向けて、背革紫檀の古風で寛濶な、肘掛椅子に腰をかけ、嘉右衛門はバラードを弾いている。六十歳ぐらいの年齢《とし》でもあろうか、頭髪は晒らした麻のように白く、頸《うなじ》にかかるまで長かったが、もう一度世に出る機会が来た時、穢れていては恥であると、そんなように思った心持ちからか、丁寧《ていねい》に手入れされていた。
 鋭い眼、食いしばったような口、大資本家型の猶太《ユダヤ》鼻、嘉右衛門はそういう顔をしていたが、右のこめかみに拇指《おやゆび》大の痣《あざ》が紫がかった黒い色に、気味悪く染め出されているために、不吉な人相をなしていた。長身であり肥大であった。で体格は立派なのであった。
 そういう彼と向かい合って、同じような椅子に腰をかけている、三十五、六歳の武士があったが、他ならぬ十二神《オチフルイ》貝十郎であった。
 その二人を取り巻いて、床の上や壁の面に、雑然と掛けられ置かれてある品の、何んと異様であることか。望遠鏡があり帆綱があり、羅針盤があり櫂《かい》があり、拳銃があり洋刀があり、異国船の模型があり、黄色く色づいている龍骨があり、地球儀があり、天気験器《ウェールガラス》があり、写真器《ドンクルガラス》がありホクトメートルがあった。
 壁に添ってハンモックが釣るされてあったが、そこには、人間が寝ていずに、和蘭《オランダ》あたりの船長でも着そうな、洋服が丸めて置いてあった。
 が、そういう品々は、十数年間人の手によって、手入れをされたことがな
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