いと見え、錆《さ》び、よごれ、千切れ、こわれ、塵埃《ちりぼこり》にさえも積もられていた。しかしそれよりもそういう品々やそういう人々を包んでいる、部屋の内部の構造《つくり》の、何んと不思議であることか。天井は黒く塗られている。壁も黒く塗られている。柱も黒く塗られている。壁にあるのは円形の窓で、天井にあるのはこれも円形の、玻璃《はり》で造られた明《あか》り窓《まど》で、そこに灯火《ともしび》が置いてあると見え、そこから鈍い琥珀色の光が、部屋を下様に照らしていた。それにしても天井が蒲鉾《かまぼこ》形に垂れ、それにしても四方の黒い壁が、太鼓の胴のそれのように、中窪みに窪んでいるというのは、いったいどうしたことなのであろう? こういう構造《つくり》は欧羅巴《ヨーロッパ》あたりの、商船のサロンの構造《つくり》ではないか。……まさに、それはそうであった。商船のサロンに則《のっと》ってつくった、部屋に相違なかった。
思うに嘉右衛門が十数年前、この部屋へ世を避けてこもった時、考えるところあってこういう部屋をひそかに造ったものと見える。
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※[#歌記号、1−3−28]われらが舟路! われらが舟路!
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最後の歌が終っても、尚バラードは鳴っていた。眼を閉じ追想にふけりながら、嘉右衛門が弾いているからであった。
その嘉右衛門の顔の上に、天井から光が射していて、額を明るく照らしていた。顔を上向けているからである。閉ざされた眼の下瞼《したまぶた》の辺に――眼窩が老年で窪んでいるのでかなり濃い陰影がついていて、それが彼の顔を深刻にしていたが、尚その後をうたいつづけようとして、なかば開けた唇を、幽《かす》かに顫《ふる》わせている様子と、頬に青年のような血の色が、華やかに注《さ》している様子が、亢奮と感激と思慕と憧憬とに、充たされた顔をなしていた。
(さあもう一息だ! 一息でいい! もう一息で秘密は解けるだろう)
向かい合って腰かけて嘉右衛門の顔を、熱心に見詰めていた貝十郎は喜びをもってこう思った。
(よし、もう一息駆り立ててやろう)で、彼はそそののかすように云った。
「空にまで届く大龍巻、丘のように浮かぶ大鯨。鰯《いわし》の大軍を追っかけて、血の波を上げる鯱《しゃち》の群れ、海の出来事は総て大きい! 赤い帆が見える! 海賊船だ! 黒い船体が島陰から出た! 真鍮《しんちゅう》の金具、五重の櫓、狭間《はざま》作りの鉄砲|檣《がき》! 密貿易の親船だ! 麝香《じゃこう》、樟脳、剛玉、緑柱石、煙硝、氈《かも》、香木、没薬《もつやく》、更紗、毛革、毒草、劇薬、珊瑚、土耳古《トルコ》玉、由縁ある宝冠、貿易の品々が積んである! さあ、日が落ちた、港へはいれ! 黎明《れいめい》が来たぞ、島へ隠れろ! ……大金がはいった、さあ上陸だ! 酒場、踊り場、寝台のある旅舎《はたご》! どれでも選べ、女を漁《あさ》れ! 飲め、酒だ、歌え! それよりもだ、バラードを鳴らして!」
絶えようとしていたバラードの音が、この時活気を呈して来た。そうして嘉右衛門の見開かれた眼に、燠《おき》のような光が燃えて来た。
(歌うぞ?)と貝十郎は首を伸ばした。
(いよいよあの歌の次を歌うぞ!)亢奮せざるを得なかった。
当然と云ってよいのである。彼はその歌を聞きたいがために、この夜ごろこの部屋へ入り込んで来て、なかば放心しなかば狂気し、しかも再び密貿易商として、海外へ雄飛しようとする夢を執念深く夢見していて、そのために気むずかしくなっており、そのために尊大になっており、あつかい悪《にく》くなっている、塩屋の主人の嘉右衛門を、すかしたりなだめ[#「なだめ」に傍点]たりおだて[#「おだて」に傍点]たりして、そうして絶えず亢奮させ、そうして絶えず昔を思い出させ、昔歌ったあの歌のつづきを、歌わせようと苦心をした、その苦心が報いられようとするのであるから。
(歌うぞ!)と貝十郎は耳を澄ました。(あの歌に秘めてある秘密などは、暗号というものの性質を、少しでも知っている人間にとっては何んでもなく解ける種類の秘密だ。一句一句の頭文字と、一句一句の末の文字とを、つなぎ合わせればそれで解ける秘密だ。最初の一句の頭文字は「か」という文字に他ならない。その次の句の末の末字は「ね」という文字に他ならない。こうしてつないで[#「つないで」に傍点]行くことによって、秘密は解けてしまうのだ。そうして俺は秘密を解いた。が、あれだけでは仕方がない。そうさ、「金は石の下、石は川の縁」と云ったところで、その川がどこの川だやら、その縁がどの川のどの辺の縁やら、解らないことには仕方がない。それを説明しているのが、後へ続く歌なのだ)
(歌うぞ!)と貝十郎は耳を澄ました。(後へ続くその歌を!)
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