は、お蝶の家へ忍んで行った。そのうち自分もいつとはなしに、お蝶に恋をするようになった。
「妾はあの夜お逢いしました時から、あなた様を愛しておりました」
「私もそうなのでございます」
とうとう互いに打ち明け合った。そうやって親しみを重ねて行くうちに、お蝶という女が覇気に富んでいて、京一郎と連れ立って、遠方へでも走って行ってしまおうと、心巧みをしているような、口吻《こうふん》を洩らすようなことがあった。しまいには露骨に勧めるようになった。
「若い時期《とき》は早く過ぎて行くものです。享楽しようではありませんか。妾はいつでもお供をします。あなたには早く決心なされて、陰気な、無気力な、生き甲斐のない、ご両親の家などお出なさいまし。外にはもっと華々しい、活気に充ちた生活があります。そうして男というものは、何か事業《しごと》をしないことには、男としての真の楽しみを、感じないものでございます。外にはいくらでも事業があります」
などというような意味のことを、率直に云ってそそのかしたりした。
五
京一郎は性格として、活動的の人間であって、箱入り息子式に生活させられることを、ひそかに以前《まえ》から嫌っていて、そのため両親へは内密に、町道場へ通って行き、竹刀《しない》の振り方など習うほどであった。
で、愛するお蝶の口から、そんなように勧められると、一も二もなく家を出て外へ行きたかった。でお蝶へ云うのであった。
「出ましょう、出ますとも、家を出ましょう! お蝶様ご一緒に行ってくださるか」
「行く段ではございません……でも」
と、すると、どうしたことか、ここで、いつもお蝶は言葉を濁し、暗示めいたことを云うのであった。
「でも、世間へは手ぶら[#「ぶら」に傍点]では、出て行けるものではございません」
「手ぶら[#「ぶら」に傍点]で! 手ぶら[#「ぶら」に傍点]とは? 何んのことでしょう?」
「世間は薄情でございます。薄情の世間と戦うには、戦うだけの用意をしなくては……」
「いえ、私はこう見えても、体は強うございますから……」
「体も体でございます。……それより、何よりお金がないことには……」
「金!」「ええ」
「金なんか」「あって?」
「いいえ。……でも、当座の……少しぐらいの金でしたら……」
「少しぐらいの当座の金などで……」ここで一層お蝶は暗示的に、このようなことを云うのであった。
「あの[#「あの」に傍点]歌の後さえ解りましたら、金はなんぼでも出来るのですが。……あの歌の後を知っている者は右のこめかみに痣《あざ》のある老人ばかりなのでございます」
「私の父の右のこめかみにも、痣があるのでございますよ。……でも私の父などが……」
「後の歌をお聞き出しくださいまし」
(変だな)と京一郎は思うのであった。
(父がそんな歌を知っているだろうか?)――とにかくこういう経緯が、幾度か繰り返されて昨夜となった。そうして昨夜もお蝶と逢った。するとお蝶は嘲笑《あざわら》うような、いつもとは異う口吻で、このような意味のことを云った。
「あなた様とは今晩限り、お逢いすることは出来ますまい」
「何故?」と京一郎は胆を冷やし、うわずった声で訊き返した。
「さあ、何故と申しましても……」
ここでお蝶は云いよどんだが、けっきょく京一郎が意気地《いくじ》がなくてお蝶の希望を叶わせようとしない、で愛想を尽かしてしまってお蝶一人でどこへとも行こう――そう決心をしたのであると、明瞭《はっきり》とではなかったが云った。
「ふーむ」と京一郎は考え込んだ。もうこの頃の京一郎は、お蝶がないことには一日として、生きて行かれないというほどにもお蝶に心を奪われていた。
で彼はカッとしてしまった。カッとした心で夢中のように誓った。
「それでは必ず明晩にも……」
「そう」とお蝶は頷いて見せた。
「では妾は明日の晩には、あなた様のお家の裏口の辺でお待ちしていることにいたしましょう」
その明日の晩が今となった。
こうして母と話している間も、恋人が家の裏口にいるのだ――そういう気がかりが京一郎の心を、わくわくさせてならなかった。
「お母様!」と京一郎は語気を強めて云った。
「二十五歳になった時に、私は大金持ちになれるのだとよくお母様は申しました。お母様お願いいたします。今、お金持ちにしてくだされ!」
「京一郎や、まあお前は……」お才は声を顫《ふる》えさせて云った。
「そんなお前、勝手なことを!」
「ねえお母様、お金をくだされ!」
「そういうことも背後《うしろ》にいる女が……」
「ねえお母様、お金をくだされ!」
六
例の歌についてお蝶の云った、あの言葉などは京一郎といえども、信ずることは出来なかった。あの歌の後につづく歌を、聞き出すことが出来たなら
前へ
次へ
全42ページ中25ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング