郎は二十歳の青年で、尾張家|御用達《ごようたし》の大町人、清洲越十人衆の一人として、富と門閥とを誇っている、丸田屋儀右衛門の長男であった。
お小夜はというに十数日前から、潮湯治に江戸からやって来た、筒井屋助左衛門という商人の娘で、年は十九だと云うことであったが、それよりは老けているようであった。珠太郎の家の夏別荘が、大野にあってその別荘へ、珠太郎は潮湯治にやって来ていた。浜で再々お小夜と逢った。並々ならぬその美貌と、洗い上げた江戸前の姿とが、珠太郎を魅さないでは置かなかった。で二人は恋仲となった。
珠太郎は名古屋という退嬰的の都会の、老舗《しにせ》の丸田屋の箱入り息子なので、初心《うぶ》で純情で信じ易かった。お小夜の性質はそれとは異って、計画的のところがあった。何かを珠太郎に対してたくらんでいる――と云ったようなところがあった。
「江戸へ行きましょう」と云い出したのは、珠太郎でなくてお小夜であった。駈け落ちをしようと云い出したのである。
最初珠太郎は顫《ふる》えたいほどにも恐れた。でもいつの間にか従うようになった。
今宵などはお小夜に「いつ?」と訊かれて「いつでも」と云うほどになっていた。
夏別荘には相違なかったが、大家の丸田屋の別荘なので、お屋敷と云ってもよいほどに、大きくもあれば立派でもあった。
今二人が媾曳《あいびき》をしている、裏庭なども林かのように、茂っていた木々によって蔽われていた。木々を通して向こうに見える、二階建ての建物から華やかな笑いと、華やかな灯火とが洩れて来ていた。丸田屋の主人が客を招《よ》んで、夜宴をひらいているからである。
芙蓉の花がにわかに揺れた。お小夜の袖が煽《あお》ったからである。そのお小夜の左右の手が、珠太郎の背に廻っていた。
「それでは明後日《あさって》の夜。……ね、珠太郎様」
「明後日《あさって》の夜? ……ええ、きっと。……」
「まず名古屋まで通し駕籠で。……」
「通し駕籠で、……参りましょうとも」
「詳細《くわし》い手筈は明日の晩に、やはりここで致しましょうよ」
「ええここで、明日の晩に。……」
珠太郎の頬にお小夜の髪が触れた。と、その時少し離れた、築山のあるほとりから、突然笑う声が聞こえて来、つづいて話す声が聞こえて来た。
「アッハッハッ、どうしたものだ。そんな殺生な真似《まね》はしない方がいい」
「これは
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