。またも彼女はかがみ込み、やがて立ち上がって脱衣場を下りた。何んの変わったこともない。
 しかし程経て潮湯治客達は、あっちでもこっちでも騒ぎ出した。
「おや財布を盗まれたぞ」
「俺も印籠を盗まれた」
「掏摸《すり》が入り込んでいるらしい」
「どこにいる、捕えろ、叩きのめせ」
 しかし彼らは例の娘が、犯人であろうとは気がつかなかった。が、たった一人だけ、気がついている者があった。ずっと向こうを彷徨《さまよ》っている、例の娘を見やったが、
「あの[#「あの」に傍点]お方はあんな大きな仕事を、懸命に計画していられるのに、あいつ[#「あいつ」に傍点]はそれに参画していながら、あんなちっぽけな小泥棒を、こんな所でやろうとは。……親の心|児《こ》知らずというやつだな。大きな計画の方へ眼をつけている俺だ、ああいう小仕事は見|遁《の》がして置こう」
 その人物は呟いた。
 潮湯治客を目当てにして、浜の幾所かに出している茶屋の、その一軒の牀几に腰かけ、茶を呑んでいた武士であって、編笠を冠っているところから、その容貌は判らなかったが、黒|絽《ろ》の羽織、蝋塗りの大小、威も品もある立派な武士であった。
「おや、あれは、珠太郎殿ではないか」
 武士は一所《ひとところ》を凝視した。
「あの娘に見とれている」
 富豪の息子とも思われるような、鷹揚《おうよう》で品のある青年が、ずっと向こうの渚の辺で、扇で胸を煽ぎながら、潮湯治場の賑わいを、面白そうに眺めていたが、例の娘が自分の横を、桟橋の方へ歩いて行くのを見ると、ひどく衝《う》たれたというふうに、恍惚《うっとり》とした様子で見送った。
 が、すぐに自分も歩き出し、その娘の後をつけ[#「つけ」に傍点]て行った。
「これは困ったことになったぞ」武士は呟いて考え込んだ。
「おや、二人は話し出したぞ」
 桟橋の上で青年と娘とが、羞《はじ》らいながらぼそぼそと、話しているのが見て取れた。
 ――その日から十日の日が経った。

「いつ?」とお小夜は情熱的に訊ねた。
「いつでも」と珠太郎は熱心に答えた。
 二人の手はしっかりと握られている。それは七月のことであって、十三日の月が懸かっていた。
 媾曳《あいびき》をしている二人の者へも、月光は降りそそいでいた。ここは尾張領知多の郡、大野の宿の潮湯治場(今日のいわゆる海水浴場)で、夜ではあったが賑わっていた。珠太
前へ 次へ
全83ページ中71ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング