、剣術、柔術は不鍛錬なれど、早業に一流を極わめ、幅十間の荒沢を飛び越える事は鳥獣よりも身体軽《みがる》く、ゆえに自ら飛沢と号す。
勾坂甚内の生長は、甲州武田の長臣高坂弾正が子にして、幼名を甚太郎と号しけるに、程なく勝頼亡び真忠の士多く討ち死にし、または徳川の御手《みて》に属しけるみぎり甚太郎幼稚にして孤児となるを憐れみ、祖父高坂|対島《つしま》甚太郎を具して摂州芥川に遁がれ閑居せし節、日本回国して宮本武蔵この家に止宿《とま》る。祖父の頼みにより甚太郎を弟子とし、その後武蔵武州江戸に下向し、神田お玉ヶ池附近に道場を構え剣術の指南もっぱらなり。ここに甚太郎は十一歳より随従して今年二十二歳、円明流の奥儀悉く伝授を得て実に武蔵が高弟となれり。これによりて活胴《いきどう》を試みたく、窃《ひそ》かに柳原の土手へ出で往来の者を一刀に殺害しけるが、ある夜飛脚を殺し、鉾《きっさき》の止まりたるを審《あやし》み、懐中を探れば金五十両を所持せり。これより悪行面白く、辻斬りして金子《きんす》を奪いぬ。その頃鎌倉河岸に風呂屋と称するもの十軒あり。湯女《ゆな》に似て色を売りぬ。この他江戸に一切売色の徒なし、甚太郎
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