河岸《かし》の此方《こなた》の川口町には材木問屋ばかり並んでいたが、これほどの騒ぎも知らぬ気《げ》に潜《くぐ》り戸を開けようとする者もなく、森閑として静かであったが、これは決して睡っているのではなく、係合《かかりあ》いを恐れて出合わないのである。
 おりから一人の老人がひしと胸の辺を抱きながら追われたように走って来た。と、スルリと家の蔭から頭巾を冠った着流しの武士が、擦れ違うように現われたがつと[#「つと」に傍点]老人をやり過ごすと、クルリと振り返って呼び止めた。
「卒爾《そつじ》ながら物を訊く。日本橋の方へはどう参るな?」
「わっ!」
 と老人はそれには答えずこう悲鳴をあげたものである。
「出たア! 泥棒! 人殺しイ!」
 これにはかえって武士の方がひどく仰天したらしく、老人の肩をムズと掴んだが、四辺《あたり》を憚る忍び音《ね》で、
「拙者は怪しい者ではない。計らず道に迷ったものじゃ。人殺しなどとは何んの痴事《たわごと》。これ老人気を静めるがよい」
 努めて優しく訓《さと》すように云っても、捕り方の声に驚かされて転倒している老人の耳へは、それが素直にはいりようがない。
「出合え出合え
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