大名、その遺臣にござります」
「淀川における風流は?」
「ただ拙者という人間を、貴殿のお耳に入れようとな」
「うむ矢っ張り然うだったか。易水の詩を残したは? 我等の企ての失敗を、未然において察しられたか」
「正しく左様、一つには! ……が、同時にもう一つ、拙者の心境を御貴殿へ、お知らせ到そうと存じましてな」
「成程」
といったが伊賀之助、次第々々に苦しくなった。顔は蒼白、血は流れる。「成程……貴殿は……荊軻の身の上! ……が、今度は拙者より申そう、その或お方は無雙の人物、失敗致そう、貴殿の計画!」
だが乞食は悠然と「運は天にござります。ただ人力を尽したく……」
「立派なお心」と伊賀之助、首をグーッと突き出した。「ご用に立たば首進上! 死花が咲きます! いっそ光栄!」
その時であった、戸外から、
「赤川大膳、捕った捕った!」
捕方の声が聞えて来た。
「未熟者めが」と伊賀之助、嘲りの色を浮かべたが
「とうとう死恥を晒しおる! それに反して俺は立派だ! 義士の介錯受けて死ぬ。死後なお首が役に立つ! ……いざ首討たれい!」
と引き廻わした。
「ご免」
というと奇怪な乞食、仕込んだ太刀を引き抜いた。ピカリと一閃、スポリと一刀、ゴロリと落ちたは首である。
「伊賀之助、御用!」
と捕方の声々、間間近く迫ったが、奇怪な乞食驚かなかった。
死骸の形を綺麗に整え、傍の屏風を引き廻すと、伊賀之助の首級《くび》を抱きかかえた。
と、スルスルと廻廊へ出た。
襖を蹴仆《けたお》す音がして、踏み込んで来たのは捕方である。
チラリと振り返った奇怪な乞食、ヒョイと右手を宙へ上げたが、恰も巨大な暁の星が、空から部屋へ飛び込んだように、一瞬間室内輝いた。
眼を射られて蹣跚《よろめ》いた捕手が、正気に返って見廻した時には、首の無い山内伊賀之助の、死骸が残っているばかりで、乞食の姿は見えなかった。
六
さてそれから一年がたった。
淀川堤に春が来た。
例の穢い蒲鉾小屋に、例の乞食が住んでいた。そうして例の女がいた。だが女の風俗は、きらびやか[#「きらびやか」に傍点]な花魁の風ではなく、男と同じ乞食姿であった。
茶も立ててはいなかった。香も焚いてはいなかった。蒔絵の硯箱も短冊もない。で勿論茶釜もなかった。名刀を仕込んだ青竹ばかりが、乞食の膝元に置いてあった。
白木の箱が置いてある。
どうやら大事の品らしい。
春陽が小屋の中へ射し込んでいる。街道を通る旅人が見える。淀川の流れが流れている。
白帆が上流へ帆走っている。
「流石は山内伊賀之助、眼力に狂いがなかったよ」
こういったのは乞食である。寂しい苦笑が口許に浮かび、顔全体を憂欝に見せる。
「けっく妾にとりましては、その方がよろしゅうございました。ご一緒に住めるのでございますもの」
こういったのは女である。嬉しそうにその眼を輝かせている。
「大岡越前と来た日には、煮ても焼いても食えない奴さ。伊賀之助の首を持参したら、俺の真意を早くも察し、乞食姿の俺を招じ、途方もなくご馳走をした揚句、政治というもののむずかしいことと、役人というものの苦衷とを、いろいろ話して聞かせた上、紋服を一|襲《かさね》くれたのだからな」チラリと長方形の箱を見たが「アッハハハ何んという態だ、ひどくその時の俺と来たら、しんみり[#「しんみり」に傍点]とした気持になり、切ってかかろうともしなかったのだからな」
「でもその時越前守様が、おっしゃったそうではございませんか『一年の間考えるがよい』と」
「ああ然うだよ、そういったよ。そうして今日が一年目だ」
「どう考えがつきました?」鳥渡不安そうに女が訊いた。
「俺はこんなように考えて了った。「一年考えるということが、もう抑々間違いだった」とな。……一年の間考えてごらん、張り切った精神なんか弛んでしまう。復讐なんていうものは、一種の熱気でやる可きものさ。考えたら熱気が覚めてしまう」
「それではせめて紋服なりと、刀でお突きなさりませ」
「そうさなあ、紋服をお出し」
立ち上がった女箱を取ると、ポンとばかりに箱の蓋をあけた。
差し延ばした乞食の手につれて、現れたのは一襲の紋服。
スラリ刀を引き抜いて、グッとばかりに突くかと思ったら、刀も抜かず突きもせず、紋服をヒラリと着たものである。
「どんなように見える? 似合うかな?」
「ちっともお似合い致しません」
「そうだろうとも然うだろうとも、矢っ張り町奉行の品格がないと、町奉行の衣裳は似合わないと見える」
「お脱ぎなさりませ、そんな衣裳」
「うむ」というと脱ぎすててしまった。
「お怨みなさりませ一刀」
「馬鹿をおいい」と笑い出した。「予譲にまでは成り下がらないよ」
菜の花の匂いが匂って来た。遠くで犬の吠声がする。
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