人へ近づいて来た。見れば、酔漢は、苦力《クーリー》と見えて、纒った支那服のあちこちに泥が穢ならしく着いている。五十を過ごした老人で、酒に酔った顔は真っ赤である。
「いよう、ご両人お揃いで」
 酔った苦力《クーリー》は、男女を見ると、こう頓狂に叫びながら、道の真ん中に突っ立ったものの、別に悪態を吐くでもなく、自分の方で二人を避けて、そのままヒョロヒョロと行き過ぎたが、擦れ違う時に、自分の肩を男の肩へぶっ付けた。
 とたんに苦力は囁いた。
「気をつけるがいいぞ張教仁!」
 囁かれた男はそれを聞くと、ピクリと体を痙攣《けいれん》させ、そのまま往来へ足を止めた。
「気を付けるがいいぞ、張教仁! 十歩。二十歩。いや三十歩かな……」
 苦力はまたも囁いたが、そのままヒョロヒョロと歩いて行く。張教仁は突っ立ったまま苦力の姿を見詰めている。彼の頭は混乱し、彼の眼は疑惑に輝いている。
「何をあなたにおっしゃったの? あの気味の悪い支那人は?」伴《つれ》の女はこう云って、不思議そうに男を見守った。
 張教仁は黙ったまま、尚も疑惑の眼を据えて苦力の姿を見送ったが、やがてクルリと振り返り女の顔をじっと見て、「気を付けるがいいぞ、張教仁! こうあの苦力は云ったのです」張教仁は眼を顰《ひそ》め、「気を付けるがいいぞ、張教仁[#「いいぞ、張教仁」は底本では「いいぞ 張教仁」]! 十歩。二十歩。いや三十歩かな。こうあの苦力は云ったのです」
「それはどういう意味でしょうね? そうしてどうしてあの苦力《クーリー》は、あなたの本名を知っているのでしょうね?」
「どうして本名を知っているか、全く合点が行きません。私の本名を知っている限りは、恐らくあなたの本名だって知っているに違いありませんよ」
「紅玉《エルビー》、紅玉《エルビー》、これが本名ね。私は名ぐらい知られたって、何んとも思やしませんよ」
「本名を知られたということは、あまり苦痛ではありませんけれど、どうして本名を知られたか、本名を知っているあの苦力《クーリー》はいったいどういう身分の者か、それが私には不思議です。不思議といえば、苦力の云った、十歩。二十歩。いや三十歩かな。この言葉の意味こそ不思議です」
「ほんとにどういう意味でしょうね」紅玉《エルビー》はしばらく打ち案じたが、「歩いて見ようではありませんか。十歩。二十歩。三十歩。その通り歩いて見ましょうよ」
 そこで二人は肩を並べ、螢火の飛んでいる静かな道を、十歩、二十歩、三十歩、と、先へズンズン歩いて行った。そしてとうとう数え数えて、三十歩の所まで来た時に、はたして事件が起こったのであった。事件というのは他でもない。ちょうどそこまで来た時に、紅玉《エルビー》が突然苦しそうな声で、
「誰か私を引っ張って行く! 眼には何んにも見えないけれど、誰か私を引っ張って行く! 遠くで私を呼んでいる! 誰が呼ぶのか解らないけれど!」
 こう叫びながら矢のように、往来を一散に走り出したのである。
 張教仁の驚きは形容することが出来なかった。しばらくは往来に立ったまま、紅玉《エルビー》の姿を見送っていたが、やがて一声叫ぶと一緒に、彼女の後を追っかけた。その走って行く男女の者を、見失うまいとその後から、もう一人追っかけて行く男がある。
 それはさっきの苦力であった。海の中のように蒼白い、月光の巷を三人の者は、マラソン競走でもするように、走り走り走り走り、とうとう姿が見えなくなった。

        十二

 紅玉《エルビー》を失った張教仁の、その後の生活は悲惨《みじめ》であった。燕楽ホテルの自分の室で、じっと悲嘆に暮れるのでなければ、北京《ペキン》の市街を夜昼となく、紅玉《エルビー》を探して彷徨《さまよ》うのであった。紅玉《エルビー》の行衛をさがすためには、彼はもちろん警務庁へもすぐに保護願いを出したのではあったが、警務庁では相手にしない。相手にしないばかりでなく、こんな事をさえ云うのであった。
「事件の性質が性質ですから、屍骸を見つけるのならともかくも、生きている女を見つけようとしても、それは不可能のことですよ。この警務庁の庁内にもそういう事件がありまして、班長が命を失いました」
 こんなような訳で、警務庁では、事件を冷淡に扱かって、行衛をさがそうともしなかった。
 張教仁の身にとっては、紅玉《エルビー》は仕事の相棒でもあり、二人とない大事な恋人でもあった。その紅玉《エルビー》を失ったということは、精神的にも物質的にも、大きな打撃と云わなければならない。そしてもちろん彼にとっては、物質的の打撃よりも、精神的の打撃の方が遙かに遙かに大きかった。もしも紅玉《エルビー》が永久に、彼の手に戻らないとしたならば、彼の性格はそのことのために、一変するに相違ない。
「忽然として現われて来て、私の心を捉えた女は、また忽然と消えてしまった。しかし彼女は消えたにしても、彼女が残した胸の傷は容易のことでは消えはしない。それにしても本当に紅玉《エルビー》という女は、何んという不思議な女であろう。そういう女に逢ったということは、なんという私の不運であろう」
 こう思うにつけても、張教仁は、どうしてももう一度|紅玉《エルビー》を手に入れたいと焦《あせ》るのであった。彼はそれから尚|頻繁《はげし》く、北京《ペキン》の内外をさがし廻った。
 こうしていつか月も経ち夾竹桃や千日紅が真っ赤に咲くような季節となり、酒楼で唄う歌妓の声がかえって眠気を誘うような真夏の気候となってしまった。
 張教仁はある夜のこと、何物にか引かれるような心持ちで、かつて愛人を見失なった金雀子街の方角へ、足を早めて歩いて行った。わずか一月の相違ではあるが、薄紫の桐の花も、焔のような柘榴《ざくろ》の花も、おおかた散って庭園には、芙蓉の花が月に向かって、薄白くほのかに咲いている。
「花こそ変ったれ樹木も月も、あの時とちっとも変っていない。それだのに私の心持ちは、何んとまあ変ったことだろう」
 張教仁は支那流に、このように感慨に沈みながら、トボトボと道を歩いて行った。こうしてしばらく歩いてから、何気なく彼は顔を上げて、行手を透かして眺めると、五間ほどの先を男女の者が、親しそうに肩を並べながら、ずんずん先へ歩いて行く。
 後ろ姿ではあるが、夜目ではあるが、先へ歩いて行く男女のうち、女の方はどう見直しても、紅玉《エルビー》の姿に相違ない。
 張教仁はうしろから、思わず声高に呼びかけた。
「紅玉《エルビー》、紅玉《エルビー》、おお紅玉《エルビー》!」
 すると女は振り返った。そして歯を見せて笑ったが、そのままずんずん歩いて行く。振り返って笑った女の顔は、やっぱり紅玉《エルビー》に相違ない。張教仁はそれと知ると、嬉しさに胸をドキドキさせ、女に追い付こうと走り出した。しかしどのように走っても、不思議なことには双方の距離はいつも五間余りを隔てている。しかも先方の男女の者は、どのように張教仁が走っても、それに対抗して走ろうともせず、いつも悠々と歩くのであった。
 張教仁の肉体は次第次第に疲労《つか》れて来た。今は呼吸《いき》さえ困難である。それだのに尚も張教仁は全力を挙げて走っている。そうして連呼をつづけている。
「紅玉《エルビー》、紅玉《エルビー》、紅玉《エルビー》!」と……
 しかし、女はもう二度とは、振り返ろうとはしなかった。支那服を纒った肥大漢の、しかも老人に寄り添ったまま、その老人に手を引かれ、悠々と歩いて行くのであった。
 すると、その時、行手から、巨大な一台の自動車が、老人の前まで走って来た。それと見た老人は手を挙げて止まれと自動車に合図をした。そして自動車が止まるのを待って、女を助けて乗らせて置いて、やがて自分も乗り移った。
 その時ようやく張教仁は、自動車の側まで馳せ寄ったが、そのままヒラリと飛び乗った。
 自動車はすぐに動き出した。扉がハタと閉ざされた。
「紅玉《エルビー》!」
 と息づまる大声で、張教仁は呼びながら、自動車の中を見廻した。
 車内には人影は一つもない!
「こりゃいったいどうしたんだ!」
 彼は魘《うな》された人のように、押し詰められた声で叫ぶと共に、やにわに扉《ドア》へ飛び付いたが、外から鍵をかけたと見えて、一寸も動こうとはしなかった。
 その時、今まで点もっていた、車内の電燈がフッと消えて、忽ち車内は暗黒になった。
 暗黒の自動車は月光の下を、どこまでもどこまでも走って行く。

        十三

 暗黒の自動車は月光の下を、どこまでもどこまでも走って行く。
 張教仁は暗い車内の、クッションへ腰を掛けたまま、事の意外に驚きながらも、覚悟を極わめて周章《あわ》てもせず、眼を閉じて運命を待っていた。どこをどのように走るのか、自動車は駸々《しんしん》と走って行く。いつか二つの窓をとざされ、外の様子はどんなにしても窺《うかが》うことは出来なかった。
「成るようにしか成りはしない。命をくれてやる覚悟でいたら何も驚くことはない。さあどこへでも連れて行け」
 彼はこのように思っていたが、このように思っている彼をして、尚且つ魂を戦《おのの》かせるような、奇怪な事件が起こって来た。しかも他ならぬ自動車の内で。
 と云うのは彼が、そう覚悟して、クッションに腰かけているうちに、どうやら暗黒のこの車内に、誰かいるような気配がした。すなわち彼と向かい合った、向こう側のクッションに、何者か腰かけているらしい。張教仁は慄然《ぞっ》とした。そして思わず声をあげた。
「いったい誰だ、そこにいるのは!」
 するとはたして、向こう側から、含み笑いの声がして、
「張教仁君、怖《こわ》いかね」と、嘲笑《あざわら》いながら訊く者がある。
「怖くもなければ驚きもしない。いったい君は何者だね?」
「怖くないとは豪勢だね。が、しかしすぐに怖くなるよ。何者かと僕に訊くのかね。さあ僕はいったい何者だろう。僕が何者かはどうでもいい。僕は僕より偉大な者の使命を帯びて来たのだから、使命さえ果たせばいいのだよ」
 姿の見えない向こう側の男は、こう云ってまたも笑うのであった。張教仁は恐怖よりも怒りの方がこみ上げて来た。
「使命を帯びて来たんだって!」張教仁は怒鳴り出した。
「そんならご大層のその使命をさっさと果たすがいいじゃないか!」
「それなら、そろそろ果たそうかね。君のためには急ぐよりも、ゆっくりした方がいいのだがね」
 相手の男はまた笑った。
「その斟酌《しんしゃく》には及ぶまいて。君の方でゆっくりするようなら、僕の方で事件《こと》を急がせるまでだ!」
「事件を急がせるってどうするんだね?」
「君に飛びかかるということさ! 君を撲るという事さ!」
「なるほど、君は勇敢だね」
 眼に見えぬ男は、こう云うと、また例の厭な笑い方を、臆面もなくやり出したが、ちょっと改まった言葉つきで、
「張教仁君、手を延ばして、君の真正面へ出すがいい、真正面の空間に、何かブラ下がっている筈だ。そいつが僕の使命なのだ」
 張教仁は無言のまま、両手をズウと出して見た。はたして正面の空間に、一筋の糸で支えられた二振りの抜き身の短刀が、上の方から下がっていた。張教仁はヒヤリとしたが、度胸に狂いは生じなかった。反抗心がムラムラと彼の胸中に起こって来た。
「こいつが使命だって云うんだな。つまり人殺しの使命だな。そんな事だろうと思っていた」
「殺人の使命と云うよりも、決闘の使命と云った方が、紳士らしくてよさそうだね」
 眼に見えぬ男の言葉である。同じ言葉がまた云った。
「張教仁君、二振りのうち、君の好いた方を取りたまえ。残ったのを僕の武器《えもの》としよう。そして二人で自動車の中で、切り合おうじゃあるまいか」
「理由の知れない決闘を、僕はしようとは思わないよ」張教仁は云い放した。
「がしかしそいつは不可能だ!」相手の男は威圧した。
「僕は使命に従って、君と決闘せにゃならぬ」
「君は使命に従って、それじゃ僕を殺したまえ。そうして君の親玉に、決闘して殺したと云いたまえ。僕はこうして坐っている
前へ 次へ
全24ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング