から、その短刀で斬るがいい。理由の知れない決闘は、僕は断じてやらないからね」
 張教仁の言葉には断乎《だんこ》たる決心が見えていた。その決心に押されたのか、相手の男も沈黙した。車内は寂然《ひっそり》と物凄い。物凄い車内に二人を乗せて巨大な自動車は、深夜の道をどこまでもどこまでも走って行く。

        十四

 その時、眼に見えぬ男の声が、慇懃《いんぎん》な調子で云い出した。
「張教仁君、さようなら、君の決心は見えました。それは立派な決心です。大概の人間はここまで来ると、気を失なってしまいます。そうでなければ短刀を持ってむやみに斬ってかかります。そうしたあげく恐怖のために、やはり気絶してしまうのです。そしてそのまま死んでしまうのです。屍骸はやむを得ず自動車から往来へ棄ててしまいます。あの警務庁の班長なども、屍骸になった一人です。それだのにあなたは堂々と私の要求を拒絶した上に、そこに平然と坐っています。あなたは一個の英雄です。あなたの胆力はこの私をすっかり感心させました。そして私の大事の使命もそのため自然果たされました。あなたはまことに堂々と第一の関門を過ぎたのです。第二第三の関門については、私は与《あずか》り知りません。張教仁君、さようなら! いずれどこかで逢うことでしょう」
 慇懃な声が消えると一緒に、闇中にほのかに浮いていた男の姿も全く消え、車内も森然《しん》と静まった。
 空には蒼白い月光が真昼のように照っている。月光を受けて銀のように、自動車の幌《ほろ》は光っている。往来には一人も人がいない。無人の街路をまっしぐらに、自動車は走って行く。
「世界の涯《はて》へでも行くがいい! 俺はどうなっても構わない」
 張教仁は闇の中で、こう不機嫌に呟いた。すると、その時、走りに走った怪物のような自動車はさすがに疲れたというように、徐々に速度を弛《ゆる》め出した。
 するとその時、行手の方で、厳《いか》めしい門でも開くような、ギギ――という音が聞こえて来た。そして、どうやら自動車は、その門の中へはいったらしく、一層速度が弛やかになった。やがて間もなく停まったのである。
 突然自動車の扉が開いた。車外《そと》もやっぱり真っ暗である。
 張教仁は躊躇《ちゅうちょ》もせずヒラリと自動車から飛び出した。
 こうして物凄い「死の自動車」から、張教仁は遁《の》がれたけれど、その後も彼の身の上には、死の自動車よりも恐ろしい、奇怪な事件が頻出した。しかも、同じその夜のうちに。そしてその事件に対しては、張教仁は次のように、自分の備忘録へ書き記した。
(張教仁の備忘録)[#「(張教仁の備忘録)」は底本では1字下げ]……私は自動車から下りたけれど、あたりが余り暗いので、どうすることも出来なかった。ここは建物の中らしい。その証拠にはどっちを見ても、月影も星影も見えようともしない。そして建物は大きいらしい。どっちへ向いていくら歩いても、板にも壁にも触ろうともしない。どんなに寂しく、建物の中で、私は立っていたことだろう。私を乗せて来た自動車は、どこへ行ったか影もない。よしまたそこにいたにしても、この暗さでは解るまい。涯《は》てしも知れない真の闇が、恐怖を知らない私の心を、ようやく乱すように思われて来た。私はどんなに陽の光と、人間の声とに憧れたことか! 私は戦慄を感じながら根強く闇に立っていた。すると、意外にも、幽《かす》かではあるが、薔薇色の火光がどこからともなく、流れて来るのに気がついた。私はあたりを見廻した。何んという不可解のことだろう! ほんの今までは闇であった私の足もとの地の上に、一間足らずの円い穴が、薔薇色の光を吐きながら、口をひらいているではないか。好奇心に駆られて私の胸は烈しくドキドキと動悸を打つ。私はそっと近寄って行って、穴の上へ首を突き出した。螺旋《らせん》階段が垂直に、穴の口から下りている。その階段の尽きる辺に、一つの室があるらしく、華やかな燈火《ともしび》が煌々と真昼のように灯っている。そしてそこには愉快そうな沢山な人がいると見えて、唄声なども聞こえて来る……。
 私はすっかり驚いて、眼を離すことが出来なかった。何んという不思議な対照だろう! 何んという信じられない光景だろう! 私の今いるこの位置は、暗黒で、人気《ひとけ》がなくて、物凄い。それだのに地下のあの室には、燈火と歌声と歓楽とが、一杯に充ちているらしい。
 私はしばらく考えた後、その室へ行こうと決心した。暗黒の恐怖に蝕《むしばま》れながら、ぼんやり地上に立っているより、たとえそれ以上の恐ろしいことが、あの地下の室にあるにしても、自分から行ってその恐ろしさを、経験した方が有意味であると、心に思ったからである。
 そこで私は身を起こし、螺旋階段へ足をかけた。そして垂直の階段をズンズン下へ降りて行った。十分ほど時間を費した時、とうとう私は地下の室へ、自分が来た事を発見した。
 室の三方は壁であった。天井の中央からはシャンデリアが無数の電球を下へ向けて、室を明るく照らしている。飾りらしいものはないけれど、室の中央に一脚の丸卓子が置いてあって、その上に一葉の紙があり、紙には設計図が書かれてある。それにもう一つ、巨大の像――支那服を纒った老人の、巨大の像が室の口に、居然と置かれてあるのであった。

        十五

 私はその像を見ているうちに、誰の銅像だか解って来た。すなわちそれは既に死んだ袁世凱の像である。どういう訳で袁爺《えんや》の像が、ここに置かれてあるのだろうかと、私はしばらく考えて見たが、それの解ろう道理がない。袁爺の像はここばかりでなく、十字形をなした長廊下のその真ん中にも置いてあった。廊下の真ん中に置いてある袁爺の像を発見《みつけ》る前に、私は奇怪な地下の館の、あらゆる場所を見歩いたのであった。蜘蛛手《くもで》に延びている無数の廊下! 廊下の左右には室の扉がズラリと一列に並んでいた。私は室の扉を叩いて見た。誰も中から返辞をしない。返辞こそしないが室の中には沢山の人達がいると見えて、賑やかな声が聞こえていた。しかも賑やかなその声は、何かに酔ってでもいるように、濁った、だらしのない喉音《こうおん》である。
 それから私は尚懲りずに、二、三の室の扉を叩いて見たがやっぱり返辞をするものがない。濁った、だらしのない、喉音だけがガヤガヤ聞こえて来るばかりである。一つの室からはハッキリと詩《うた》を唄うのが聞こえて来た。
[#ここから1字下げ]
古木天を侵して日已に沈む
天下の英雄寧ろ幾人ぞ
此の閣何人か是れ主人
巨魁来巨魁来巨魁来
[#ここで字下げ終わり]
「あの詩をうたっているんだな」
 私は別に気にもかけず、先へズンズン歩いて行った。そして廊下の十字路のその中央に置いてある袁爺の銅像の前まで来て、像を見上げて佇んだ。
 すると、忽然と、像の影から、一人の支那人があらわれた。見れば、意外にも、その男は、金雀子街で姿を見せた、穢い年寄りの苦力《クーリー》であった。今日もやっぱり酔っている。ヒョロヒョロとあぶなそうに歩いている。
「おや!」
 と、私は仰山に、驚きの声を洩らしたのである。しかし老人は見向きもせず、右の方へユラユラと行きかけたが、その時、またも、囁いた。
「ズンズン行くがいいぞ! 張教仁! 左へ左へ左へとな! 突き当りの帳《とばり》をかかげるがいい……」
 云ってしまうと、老苦力は銅像の影へ身を寄せた。ともうどこへ行ったものか、どう見ても姿は見えなかった。
 冒険を覚悟のこの私は、苦力の言葉に従って、左へ左へ左へと、足を早めて歩いて行った。二十分あまりも歩いた時、長い廊下が行き詰まり、そこに一つの室があった。しかも扉は半ば開き、内側に垂れた錦繍の帳の色さえ見分けられた。私は少しの躊躇もせず、グッと帳をかかげると共に、室へスルリとはいったのである。
 ああ、夢のような室の態《さま》よ!
 ほんとに夢のような小さい室! その室を仄かに馨《かお》らせるものは、甘い阿片《アヘン》の匂いである。室を朦朧と照らしているのは、薄紫の燈火である。それは天井から来るらしい。天井から来る薄紫の燈火の光に照らし出されて、幽かに見える一つの寝台。白衣の乙女がその上で、のどかに阿片を飲んでいる。
 乙女の顔を見た時の、私の驚きと喜びとは、筆にも言葉にも尽くされない。乙女は尋ねる紅玉《エルビー》であった。……私は寝台に走り寄った。そして紅玉《エルビー》を抱きしめた。
「お前は紅玉《エルビー》! ああ紅玉《エルビー》!」
 私の洩らした言葉と言えば、たった二言のこれだけであった。これだけを洩らすと私の眼から滝のように涙が流れ出た。
 すると、彼女は――紅玉《エルビー》は、眠げにその眼をひらいたが、私の顔をじっと見て、そして異様に微笑した。それからまたも眼を閉じたが、やがて静かに語り出した。夢見るようなその言葉つき……。
「……私あなたを知っています。張教仁さんね。そうでしょう……かすかに覚えておりますわ。沙漠であなたと逢ったことも! そして、そうそう、金雀子街で不意にあなたと別れたことも――遠い遠い昔のことよ! 五年も十年も二十年も――そして私はその頃は、あなたを愛しておりましたわ! そして、あなたも、私をね……でももう駄目よ! そうでしょう! 私は他人の物ですもの。ですから二人は諦めて赤の他人になりましょうね……泣いては厭よ、ねえあなたや……それよりも阿片でも飲みましょうよ。阿片を飲んで、飲んで、飲んで、涙を忘れましょうね」
「紅玉《エルビー》! 紅玉《エルビー》! ああ紅玉《エルビー》! お前は阿片に酔っているよ! お前の本心は麻痺している! それとも本当に無垢のお前を、穢した人間があるというなら、そいつを私に明かしておくれ! そうだ、そいつを明かしておくれ!」
 私はほとんど半狂乱のうろうろ声で云い迫った。
 しかし紅玉《エルビー》はそう云われても、尚|譫言《うわごと》をつづけるのであった。

        十六

「きっとあなたは知っていらっしゃるわね。近頃|北京《ペキン》から田舎まで、妙な詩《うた》が流行《はや》っているでしょう。あの詩の意味を知っていて? 『古木天を侵して日已に沈む』こう真っ先にあるでしょう。あの意味はこうよ、こうなのよ――天のように偉かった支那の国に、古い大木が蔓延《はびこ》って、支那の国を蔽うたので、日光を透すことが出来なかった。そのうちにその日が沈んでしまった。つまり日というのは文明のことよ……『天下の英雄寧ろ幾人ぞ』こうその次にあるでしょう。この意味は読んで字の通りよ。つまりそうなった支那の国には、英雄などというものは、一人もないと云っているんだわ。『此の閣何人か是れ主人』これが三番目の文句ですわね。閣というのは他でもない、地下に出来ている館のことよ。私達のいるここのことよ。そうしてここは阿片窟よ。阿片窟ではあるけれど、同時にここは秘密結社の一番大事な本部なのよ。こういうとあなたは訊くでしょう。いったい何の秘密結社かってね。私教えてあげますわ。世界征服を心掛けている恐ろしい秘密の結社ですの……そして結社の首領というのは――そうよ、結社の首領というのは、大変偉い人ですの、私をここへ呼び寄せたのも秘密結社のその首領よ――そして私はその人に、愛情を捧げておりますの!」
「いったいそいつは何者だ! いったいそいつはどこにいる!」私は思わず怒鳴りつけた。それほど紅玉《エルビー》の譫言《うわごと》は私の心を傷つけたのであった。
 すると彼女は同じ調子で、私にそれを物語った。
「あなたはその人を知っている筈よ。少くもあなたはその人の銅像を知っている筈よ」
「銅像だって※[#感嘆符疑問符、1−8−78] どんな銅像?」
「廊下に立っていたでしょう」
「あれは袁世凱の銅像だ!」
「昔はそういう名でしたわね」
「袁世凱は、とうの昔、この世から死んでしまった筈だ!」
「世人はそう云っていますけれど、ほんとは生きているのですよ」
「夢だ夢だ! くだらない、夢だ!
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