」
「いいえそんな事はありません! いいえそんな事はありませんわ!」
私は怒って烈しい声で、紅玉《エルビー》を叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]しようとしたが、しかしそれは不可能であった。何ぜかというにその一刹那、遙かに遠く警笛の音が地下室の静寂を破ったからで。続いて二笛! また三笛! 忽ちどよめく声がする。怒声、哀願、女の泣き声……それから拳銃の鋭い音! 剣の鞘のガチャつく音! 警官が襲い込んだらしい。
私は一言も物を云わず、紅玉《エルビー》を肩に引っ担いだ。それから室を走り出た。長い廊下を一散に、右へ左へ走り廻る。カッと燃え上がる火の光が、行手の廊下を隘《ふさ》いでいる。地下室は焔々と燃えているらしい。煙りに咽せて私は思わず廊下へ倒れようとした。その時私を呼ぶ者がある。
「左手の壁のボタンを押せ! そこから上へ登って行け! 躊躇せず走れ張教仁!」
私はハッと刎ね起きて、声のする方へ眼をやった。煙りに包まれ火を踏んで、一人の支那人が立っている。両手に二挺の拳銃をもち、正面を睨んだその姿! それは意外にも金雀子街と、銅像の前とで邂逅した、穢い老人の苦力《クーリー》であった。しかし姿は苦力であるが、付け髯と付け眉とをかなぐり棄てた、生地《きじ》の容貌をよく見れば、思いきや、それは、羅布《ロブ》の沙漠で、私が裏切って捨てて逃げた、西班牙《スペイン》の花形、ラシイヌ大探偵! 私に何んの言葉があろう! ただもう恥じ入るばかりである。やにわに私は頓首した。それから左手の壁を見た。はたしてボタンが一つある。そいつを押すと、壁の一部が、そのまま一つの扉となり、ギーと内側へ開いた隙から、紅玉《エルビー》を抱えて飛び込むと、扉はハタと閉ざされた。
暗中にかかった階段を、私は紅玉《エルビー》を抱えたまま、上へと、命の限りに登って行った。
こうして階段を行き尽くし、ようやく地上へ出て見れば、そこは案外にも金雀子街の、他人の家の庭の空井戸であった。そしてもう夜は明けていた。……(備忘録終り――)
その翌日のことである。中華民国警務庁の、保安課の室に十四、五人のかなり重大な人々が、ラシイヌ探偵を取り囲んで、じっと話に聞き惚れていた。
「……まあそう云った塩梅《あんばい》で、いろいろ研究をした結果、形の見えない何者かが形の見えない糸をもって引っ張って行くという、その事実は、催眠術に過ぎないと、このように目星をつけてからは、その方針で進みました。ところがはたしてある晩のこと、金雀子街を歩いていると、貴公子風の支那青年と、土耳古《トルコ》美人とが月に浮かれて、向こうから歩いて来ましたが、二人のうちのどっちかが暗示状態に落ち入っていると、早くも私は見て取ったので、何気なく警告を与えました。それというのも、その貴公子を私が知っていましたからで。するとはたして土耳古《トルコ》美人が、ものの三十歩ほども歩いた頃、例の調子で、例のように、走り出したというものです。驚いて貴公子は追って行く。もちろん私も追って行く。貴公子は中途で倒れましたが私は最後まで追いかけました。するとどうでしょうその美人は、北京《ペキン》中散々駈け廻った後、やっぱり同じ金雀子街へ帰って来たじゃありませんか。そうして、その街の街端れの、陶器工場の廃屋の中へ走り込んだという訳です。私もそこまで行きました。忽ち地上へ穴が開く、地下室へ通う階段がある、それを二人は下りました。すると恐ろしく広い立派な阿片窟へ来たというものです。私はいろいろ調べました。その阿片窟の設計図さえ私は手に入れたというものです。そして阿片窟の経営者が誰であるかを突き止めました。袁更生という男です。そして自分では袁世凱の後身だと云っているのです。そして世界の各国へ阿片窟の支部を設立し、世界中の人間を堕落させて、そして自分が全世界を征服するのだなどと高言して、愚民を騙《たぶら》かしていたそうです。それほど大がかりの阿片窟が、どうして今日まで知れなかったかというに阿片窟へ出入りする人間を、よく吟味して加入させたからで、今云った首領の袁更生が例の催眠術で誘拐して来ても、途中でその人間の強弱を試し、臆病な奴はそのまま途中で、自己催眠で自殺させ、街路で容捨なく捨ててしまい、大胆な者だけを連れて来たので、秘密が保たれていたのです」
ラシイヌ探偵は云ってしまうと、葉巻を出して火を点けて、さも旨そうにふかし出した。
「残念な事には」とラシイヌはちょっと片眼をひそめたが、「かんじんの首領の袁更生だけを、まんまと取り逃がしてしまったので、こいつは私の失敗でした」
こう云ってニヤリと苦笑した。
第四回 上海夜話
十七
上海《シャンハイ》、英租界の大道路、南京路《ナンキンルー》の中央《なかほど》のイングランド旅館《ホテル》の一室で、ラシイヌ探偵と彼の友の「描かざる画家」のダンチョンと葉巻《シガー》を吹かしながら話している。
「……ほほう、そんなに美人かね。ところで君はその美人をモデルにしたいとでも云うのかね。モデルにするのもいいけれど、これまでの君の態度を見れば、どんなに良いモデルがあったところで、『描かざる画家』ダンチョンたる君は、それを描かないんだからつまらないよ。それとも今度からは描くのかね?」
「それはもちろん描きますとも。あんな素晴らしい美人がですね、モデル台の上へ立ってくれたら、自然とブラシだって動きますよ」
「美人美人と云うけれど、君の言葉を聞いていれば、美人は面紗《ヴェール》に隠れていて、顔を見せないって云うじゃないか」
「顔は一度も見ませんけれど、美人であるということはその体付きで解ります。飛び離れて優秀《すぐれ》たあの体には、飛び離れて美しい容貌が着いていなければ嘘と云うものですよ。美人に相違ありませんな」
「なるほど、君は画家だから、そういうことには詳しいだろう。ところで素晴らしいその美人が君に手紙を手渡したというが、少し変だとは思わないかね?」
「無論変だと思います。つまり変だと思えばこそ、あなたにお話したのですが……」
「君の様子をおかしいと見て僕が質問したればこそ、君はその事を打ち明けたので、そうでなければ、君は黙って、美人の手紙に誘惑されて今夜一人で公園の音楽堂へ行ったに相違ないよ。全く今日の君の様子は、変梃《へんてこ》と云わざるを得なかったよ。蛮的の君がお洒落《しゃれ》をする。頭髪《かみ》を香油で撫でつけるやら、ハンカチへ香水をしめすやら、そしてむやみにソワソワして腕時計ばかり気にしている。正気の沙汰じゃなかったね……平素《ふだん》の日ならそれでもいいさ。君も充分知っている通り、埋もれた宝庫《たから》を尋ねようと、西域の沙漠を横断して支那の首府まで来て見れば、一行での一番大事な人のマハラヤナ博士が風土病にかかって北京《ペキン》から一歩も出ることが出来ず、それの看病をしているうちに、北京警務庁に頼まれて、袁更生の事件に関係して、むだに日数を費してしまった。それでもようやく博士の病気が曲がりなりにも癒ったので、陸路を上海《シャンハイ》まで来たところで博士がまたも悪くなった。それもようやく恢復したので、明日はいよいよ南洋を指して出帆という瀬戸際じゃないか。そいつを君にソワ付かれちゃ、誰だって質問《き》かずにゃいられないよ。訊いたからこそ話したのさ。君が進んで自分から、僕に話したんじゃない筈だよ」
こう云うラシイヌの口もとにはさすがに微笑が漂ってはいるが、鋭いその眼には非難の光がギラギラ輝いているのであった。
ダンチョンは次第に首を垂れ、小児《こども》のように頬を赭らめ、いつまでも無言で聞いていたが、この時フッと眼を上げた。その眼にはいかにも困ったような、嘆願の表情が浮かんでいて、それが滑稽で無邪気なので、ラシイヌは思わず笑いかけた。それを危く取り留め彼は厳然と云い渡した。
「それでは君はその別嬪《べっぴん》が、手紙で君に指定した通り、今夜公園の音楽堂へ音楽を聞きに行きたまえ。しかし一人では行かせないよ。もちろん見え隠れではあるけれど、僕も一緒に行くことにしよう。そうして君がその美人を、モデルに頼むことに成功するか、それとも美人が君を捕らえて、逆さに釣るして泥を吐かせるか、恋の争闘を見ることにしよう。こいつはとんだ見世物だよ」
ラシイヌは云って立ち上がった。
「たしか音楽の始まるのは午後八時からだということだね。それまでは君も辛棒して、博士の室へでも行っていて、八時になったら出て行くさ。それまでに僕も僕の用を片付けて置くことにしようかね。もっとも僕の用というのは、街をブラツクことだけれど」
ラシイヌは室を出て行った。それから彼はホテルを出て、県城指して歩いて行った。
十八
あるいは「東洋の紐育《ニュウヨーク》」もしくは「東洋の桑港《サンフランシスコ》」――こう呼ばれている上海《シャンハイ》も、昔ながらの支那街としての県城城内へ足を入れれば、腐敗と臭気と汚穢《おわい》とが、道路《そと》にも屋内《うち》にも充ち満ちていて、鋭い神経を持った人は近寄ることさえ忌み嫌った。
そういう不潔の城内を差してラシイヌは歩いて行くのであった。しかしラシイヌは目的地へすぐに行こうとはしなかった。彼は自分のいる英租界を、黄浦河に沿って悠々と、仏租界の方へ歩いて行った。彼の道順には租界中での一番賑やかな街筋が――すなわち黄浦河の岸上の街《まち》と、蘇州渓の街とが軒を並べ、街路整斉と立っている。街には人が出盛っていた。馬車、自動車は鈴を鳴らし、広い車道を馳《はし》って行く。三層五層の大厦の窓は、悉《ことごと》く扉を開け放され忙しそうに働く店員達の小綺麗な姿が見えている。上海棉花公司とか、広徳泰|軋《れき》花廠とか、難解の文字の金看板が、家々の軒にかかっていて、夕陽にピカピカ光っている。九江路《キウキャンルー》を右に曲がり、福建路《フウキンルー》を行き尽くし、それから初めて仏租界へ、ラシイヌはゆっくり足を入れた。
英租界の繁華に比較しては、仏租界の方はやや寂しく、その代り上品で粋であった。紳士と連れ立った淑女達や、大きな金剛石《ダイヤ》の指輪を飾った俳優じみた青年や、翡翠《ひすい》の帽子を戴いて、靴先に珠玉《たま》をちりばめた貴婦人などの散歩するのに似つかわしい街の姿である。
ラシイヌは静かに歩きながらも、左右に鋭く眼を配って、全身の注意を耳に蒐《あつ》め、ある唄声を聞こうとした。しかし唄声は聞こえない。足音や話し声や笑い声や、器物の動く音などは、行く先々で聞こえてはいたが、聞こうと願う唄はどこからも聞こえては来なかった。ラシイヌは仏租界を歩き尽くし、しばらくそこで躊躇したが、やがてグルリと大迂回をして米租界の中へ進んで行った。
仏租界ほどの品もなく、英租界だけの規律もなく、ただ米租界は紛然として、繁昌[#「繁昌」は底本では「繁晶」]を通り越して騒がしかった。街々を歩いている人々には、印度《インド》人もあれば、土耳古《トルコ》人もある。煙草《たばこ》ばかり吹かしている洪牙利《ハンガリー》人や、顔色の黒いヌビヤ人や、身長《せい》の高くない日本人や、喧嘩早い墨西哥《メキシコ》の商人などが、黄金《かね》の威力に圧迫され、血眼《ちまなこ》になって歩いている。各国の領事館や銀行の立派な建築《たてもの》が街々に並び、倉庫、桟橋、郵便局などが、到る所に並んでいる。上海の本当の持ち主の支那の商人は米租界でも最も狡猾なるあきゅうどとしてどこへ行ってもうよついている。
ラシイヌはゆるゆる歩きながら、左右の光景を眼で眺め、湧き起こる音響を耳で聞き、先へ先へ進んで行った。
しかしやっぱり聞きたいと願う、その唄声は聞こえなかった。こうして彼は米租界をも、失望をもって通り過ぎた。そして今度は足を早めて、いよいよ目的の県城の方へ、彼はズンズン進んで行った。
街《まち》は次第に寂しくなる。そして道路の不潔さは、ラシイヌの眼を顰《ひそ》めさせる。
城内と城外とを距てている城
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