壁の前まで来た時に、いつもながら彼は感嘆してしばらく立って眺めていた。城壁の周囲三十支那里、磚瓦《せんが》をもって畳み重ね、壁の上には半町ごとに厳しい扶壁が作られている。長髪賊の乱の時初めて備えられた大砲が、扶壁に残ってはいるけれど、ほとんど使用に堪えないまでに青黒く砲身が錆びている。城壁に沿うて丈なす草が、人に苅られず生い茂り、乏しい紅白の草花が咲いているのも野趣がある。昔、戦国の世の時代に、養う食客三千人と、世上の人に謳《うた》われた、春申君と申す人の、長く保った城である。城には七つの郭門《もん》がある。郭門《もん》は城内の旧市街にいずれも通じているのであって、道台衙門のある所はすなわち東大門内である。知県衙門のあるところは小東門内の中央である。
日没を合図に内外の市街《まち》は――県城内の旧市街と県城外の新市街とは、交通を遮断する掟《おきて》であってその日没も近づいているので、ラシイヌは郭門の一つから城内へ急いではいって行った。城内の街の狭隘《せま》さは、二人並んで歩くことさえ出来ぬ。凸凹の激しいその道には豚血牛脂流れ出しほとんど小溝をなしている。下水の桶から発散する臭気や、葱《ねぎ》や、山椒《さんしょう》や、芥子《けし》などの支那人好みの野菜の香が街に充ち充ちた煙りと共に人の嗅覚を麻痺させる。小箱のような陋屋《ろうおく》からは赤児の泣き声や女の喚き声や竹の棒切れで撲る音などが、巷に群れている野良犬の声と、殺気立った合唱《コーラス》を作っている。
街には人が出盛っていて、あっちでもこっちでも支那人らしい誇張した声音と身振りとで「負けろ」「まけない」の掛け合い事――つまり、商売をやっている。誰も彼もみんな忙がしそうだ。そういう忙がしい人達を縫って、さも隙そうな若者どもが、小唄を唄いながらぶらついている。仔細に見るとそれらの者はいずれも逞《たくま》しい体をした働き盛りの若者である。しかも彼らは働こうともせず、唄を唄って歩いている。彼らのうたうその唄こそは、ラシイヌの聞きたがっている唄である。
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古木天を侵して日已に沈む
天下の英雄寧ろ幾人ぞ
此の閣何人か是れ主人
巨魁来巨魁来巨魁来
[#ここで字下げ終わり]
この唄をうたうに若者どもは「巨魁来巨魁来巨魁来」と、最終の一連に力をこめ、いかにも今にもその巨魁がどこからか堂々と乗り込んで来て、姿を現わすのを待っているかのように、勢い込んで唄うのであった。
ラシイヌはゆるやかに歩みながら、捨て目捨て耳を働かせて、彼らの様子を窺った。そうして心で罵った。
「フン、いくらでも唄うがいい、巨魁来巨魁来巨魁来か! どんな巨魁だかこの俺にはちゃあんと解っておいで遊ばすのだ。どんな野郎が来たところでこの鼻ちゃんは驚かない。どんな野郎でもとっ捕えて見せる。俺達の目的を妨げる奴は張三李四のお構いなく地獄の釜の中へたたき込んで見せる?」
ラシイヌはそれから尚しばらく、城内をブラブラ彷徨《さまよ》ってから、黄浦河の岸へ出て行った。
県城とそして三つの租界を、東の岸に立たせたまま北へ流れる黄浦河は、水こそ黄色に濁ってはいるが、その河幅は二百間、無数の商船や軍艦や支那船《サンパン》を満々たる水に浮かべ、揚子江に向かって流れている。目星い大きな工場は、いずれも河の東岸にあって、巨大の煙突、急傾斜の屋根が、空を蔽うて林立し、重い起重機を動かす音や猛獣のような汽笛の音や、のんびりした支那流の掛け声などが、煤煙《ばいえん》の空に響いている。オリエンタル船渠《ドック》の工場からは鉄槌の音が聞こえてくるし、対岸に孤立して立っている董家造船所のドックからは汽罐の音が聞こえて来る。
ラシイヌは河岸を米租界の方へ耳を傾《かし》げながら歩いて行った。そのうちに焼け爛《ただ》れた砲弾のような太陽がグルグル廻りながら、平野の地平《はて》へ没してしまって、間もなく四辺《あたり》は暗くなった。遙か県城の方角に当たって、関門を鎖ざす軋り音が、一日の終りを告げるかのようにさも重々しく響いたが、その音と一緒に諸所の工場から蟻の群でも出るように職工達が現われた。疲労《つか》れた声音で挨拶をしてちりぢりに四方へ散って行く。その後は森然《しん》と静まり返り夜業をすると見えてある工場の、二つの窓から火の光が戸外にカッと洩れて来るのさえかえって寂しく思われた。
四辺《あたり》は森然と静かである。
その時、ラシイヌが歩いている河岸の下の水面から、元気のよい唄声が聞こえて来た。それは、やっぱりあの[#「あの」に傍点]詩である。
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古木天を侵して日已に沈む
…………
…………
巨魁来巨魁来巨魁来
[#ここで字下げ終わり]
ラシイヌはちょっと眉をひそめ、足下の水面をすかして見た。巨大の支那船《サンパン》が浮いていて、燈火《あかり》も点《つ》けてない船の中で、二、三十の人影がボンヤリとうごめいているのが眼に付いた。ラシイヌの心臓は動悸を打ち、その眼は急に見開らかれた。彼は楊柳の蔭へこっそり姿をひそませて、じっと様子を窺った。船中の唄声はやがて絶えて、また四辺は寂静《ひっそり》となった。すると今度は反対の岸――二百間あまりもかけ隔てた対岸《むこうぎし》の方から幽《かす》かに幽かに同じ唄声が水を渡ってラシイヌの耳へまで聞こえて来た。やがてその詩も途絶えたが、詩の途絶えた方角から、青色の光がただ一点、闇の中へポッツリ浮かび出た。あたかも人魂が迷うようにその青色の|燈の灯《ともしび》は、右に左に静かに動くとまた闇の中へ消えて行った。すると、今度は、彼の足もとの、支那船《サンパン》の中から同じような青色の燈火《あかり》が浮かび出たが、空中で五、六回揺れた後でそのままフッと消え去った。
「フフン、何かの合図だな」
楊柳の蔭でラシイヌは思わずこのように呟いて尚もそのまま彳《たたず》んで、支那船《サンパン》の様子を窺った。
すると支那船は動くともなく、幽かに船体を動かした。闇の河面《かわも》が静かに動いて、一町あまり隔たっている小さい桟橋の方角へ、人眼を忍ぶように辷って行く。
そうして桟橋へ着いた時、船の中にいた支那人どもは、一人一人桟橋へよじ登った。二十人あまりの人影が、墨のように橋の上へ塊《かた》まった時、一個《ひとつ》の大きな黒い箱が船の中から持ち上げられた。桟橋の上の人影が、揃って前へ手を突き出し、その黒い箱を受け取った。するとまたもや船の中から、ゾロゾロ人影が現われて桟橋の上へよじ登ったが、一個の箱を肩に支え、その箱をみんなで取り巻いて、神前へ捧げる御輿《みこし》のように、敬虔《けいけん》な態度で歩いて行く。
「さあどうもこいつは解らない」
ラシイヌは胸へ腕を組んで、渋面を作って呟いた。それから楊柳の蔭を出て、御輿の後を追いかけたが、思い出して腕時計を眺めると、彼は追うのを中止した。
もう十分で八時である!
彼は御輿と腕時計とを代わる代わるに見比べてしばらくじっと考えていたが、決心がついたというように、グルリと体の方向を変え、大速力で走り出した。
公園へ向かって走るのである。
黄浦河とそして呉松《ロウソン》江とが、相合流する一角に、居留地の公園は立っていた。北と東が水に臨み、西が英租界に向いている。水に向かった園内の芝の丘に、音楽堂は立っていた。眩《くらめ》くばかりの電燈が、楽堂の周囲《まわり》に照り渡り、そこへ集まった聴衆のほくろさえ鮮かに見えるほどである。
十九
もう已《とう》に音楽は始まっていた。それは伊太利《イタリア》の音楽隊で、モールをちりばめた服装から指揮者《コンダクター》の風姿《スタイル》から、かなり怪しげな一団であったが、「伊太利人」という吹聴のためか、聴衆《ききて》は黒山のように集まっていた。聴衆は全部|欧羅巴《ヨーロッパ》人で支那人は一人もいなかった。それは公園の入口に「華人不可入」と書いた建札が、厳めしく立っているからだ。
ラシイヌは聴衆の間に交って、彼の鋭い観察眼であたりを静かに見廻した。「描かざる画家」ダンチョンを発見《みつけ》出そうためである。ダンチョンの姿はラシイヌの左手、十間ほどの彼方にいた。新しい帽子に白のネクタイ、思い切ってめかしたその姿は、ラシイヌには滑稽に思われた。性来どこかにおかしみを持った田舎者じみたダンチョンが、神経質な眼付きをして、音楽などはうわの空で、例の美人を発見《みつ》けようと、四辺をキョロキョロ見廻す様子は、それは全く珍であった。
ラシイヌはおかしさを堪えながら、ダンチョンの様子を見守った。
その時、きょとついたダンチョンの眼がある一所《ひとところ》に据わったので、ラシイヌは「オヤ」と呟きながら、その方角へ眼をやった。はたしてそこには婦人がいた。すなわち楽堂の柱に寄って、黒い面紗《ヴェール》で顔を隠した水色の服の欧州美人が、スラリと彳《たたず》んでいるのであった。
「おや」とラシイヌは婦人を見ると、またも思わず呟いた。というのは面紗《ヴェール》のその女が確かに見覚えがあるからであった。
「ハテナ、いったいあの女とどこで知人《しりあい》になったろう?」
ラシイヌは一瞬間心の中で記憶の糸を手繰《たぐ》ったけれど思い出すことが出来なかった。
その間も楽堂の舞台では、拙《まず》い音楽が続けられていた。そして聴衆《ききて》は根気よく静かに耳を傾けている。
しめやかな、静かな、いと平和な、異国情緒の光景である。
ラシイヌは尚も眼をそばだて、面紗の女とダンチョンの様子を代わる代わるに眺めやった。そして怪しい素振りでもあったら、追っ駈けて行こうと用意した。
するとその時、どこからともなく、獣の鳴き声が聞こえて来た。「キキーキキー」と鋭い声! 音楽に夢中の群集達は、鋭い獣の鳴き声に注意しようともしなかった。静かに音楽を聞いている。一人の面紗《ヴェール》の女だけがその鳴き声を聞くか否や、烈しく体を顫《ふる》わせた。そして獣の鳴き声に促がされでもしたように、急にスルスルと、群集を分けてダンチョンの方へ近寄った。
面紗《ヴェール》の女とダンチョンとはそのまま体を寄せ合って聴衆の圏から出ようとした。それと見て取ったラシイヌは、これも素早く聴衆を分けて燈火《あかり》の明るい広場へ出た。そうして真っ直ぐに前方を見ると、面紗の女とダンチョンとが木立の繁った暗所《くらがり》の方へ、側目《わきめ》もふらず歩いて行く。程よい間隔を中に保って、ラシイヌはその後を追って行った。
鋭い獣の鳴き声は――それは猩々《しょうじょう》の鳴き声であるが――樹立《こだち》の彼方《かなた》、鉄柵の向こうの公園の外の人道から、またもその時間に聞こえて来た。面紗の女とダンチョンとはその鳴き声に導かれるように公園の裏門を辷り出た。そして人道を南の方へ足を早めて走って行く。三度も四度も行手の方から猩々の鳴き声が聞こえて来る。ラシイヌはこれも駈け足で二人の後を追っかけた。
こうして幾分走ったろう? 暗い大きな建物の蔭から、獲物を狙う豹のようにひらりと走り出た支那人がある。血気盛んの若者らしく筋骨なども逞しく、走って行く脚も軽々と、二人の男女を追って行く。
ラシイヌはちょっと驚いて、その支那人を見詰めたが、
「ほほう、彼奴か、あの男か!」
思わずもこう呟いた。こう呟いたそれと同時に、面紗の婦人の何者であるかを、閃めくように理解した。
面紗《ヴェール》の女とダンチョンとは、次第に速力を速め出した。まるで舞うように走って行く。二人の走るのを誘うかのように、幾度も幾度も猩々の声が行手の方から聞こえて来た。その鳴き声は、不思議なことには、手近の所から聞こえることもあり、遙かなあなたから来ることもある。
疲労《つかれ》を知らないラシイヌの体も、さすがにいくらか疲労《つか》れて来た。しかし、もちろん、この追跡を止めようなどとは思わなかった。彼らの走るに従って彼も風のように走って行った。
こうしてどれだけ走ったろう? 黄浦河の河上に浮かんでいる
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