ことが出来た。話によればこの小屋から西南の方角へ十|哩《マイル》行けばそこに険しい山があって山の麓《ふもと》には湖がある。その湖の底にこそ私達が長らく探していた彼の羅布《ロブ》人の一大宝庫が隠されてあるということであった。
「これは最近の発見だが、博言博士のマハラヤナ老がダイヤル土人の捕虜の口からこういうことを聞いたそうだ――それは湖底のその宝庫を有尾人という原始人が守っているという事だがね。それが獰猛《どうもう》の人種でね、さすが兇暴のダイヤル族も有尾人にだけは恐れていて接近することを忌むそうだ」
「有尾人なら僕は見たよ」
 私は先日《このあいだ》の出来事を掻《か》いつまんで彼に物語った。それから私は彼に訊いた。
「全体どうして土人になんか君は捕虜《とりこ》になったんです?」
「それがね」とダンチョンは苦笑して、「ラシイヌさんやレザール君が(描かざる画家ダンチョン)だなんて僕に綽名をつけるので、一つこの島の風景でも描いて名誉恢復をしようと思って、それで昨日もカンヴァスを持って林をブラブラ歩いているうちに土人の部落へ出てしまったのさ」
 ダンチョンは暢気《のんき》そうに笑うのであった。

 その日の夕方、林の彼方に噴煙が高く上がるのを見た。焼き打ちに遇った土人部落が火事を起こしているのであろう。夜に入ると焔《ほのお》の舌が、空にヒラヒラ現われた。
 林の鳥獣は火光に恐れて小屋の根もとへ集まって来た。猪は鼻面で土を掘ってその中へ自分を隠そうとする。栗鼠《りす》は木の幹を上り下りしてキイキイ声で鳴きしきる。山鳩は空を輪のように舞って一斉に下へ落として来てもすぐまた空へ翔け上がる。豹は岩蔭で唸っているし水牛は萱《かや》の中で顫《ふる》えている。
 火光は益※[#二の字点、1−2−22]拡がった。部落を悉く焼きつくしてどうやら林へ移ったらしい。
 南洋原始林の大山火事!
 鹿や兎や馴鹿《となかい》は自慢の速足を利用して林から林へ逃げて行く。小鳥の群は大群を作って空の大海を帆走って行く。斑馬の大部隊は鬣《たてがみ》を揮って沼の方角へ駈けて行く。
 火足は次第に近付いて来る。煙りは小屋を引き包んだ。
 私は拳銃《ピストル》をひっ掴み、土人乙女が置いて行った弓矢をダンチョンに手渡すや否や二人は小屋から飛び下りて、走る獣の中に混って風下の方へ逃げ出した。

        三十三

 恐怖に充ちた人間の叫びが背後《うしろ》の方から聞こえて来た。振り返る間もなく、私達の横を飛鳥のように駈け抜けて行くのはダイヤル部落の土人達で武器さえ手には持っていない。もちろん私達を認めても襲って来ようともしなかった。火足から遁がれよう遁がれようとそればかり焦せっているようだ。
 火足は間近に迫って来た。ちょうど紅でも流したように深林の中は真紅である。熱に蒸されて私の背中は滝のように汗が流れている。この大危険の最中にも私はこんなことを考えた。
「土人と一緒に逃げてはならん。土人の行く方へ行ってはならん。彼ら蛮人の常としていつ心が変るかもしれん。幸いに深林を出外れてたとえ草原へ出たところで、そこで土人に襲われたらやっぱり命を失ってしまう。土人の逃げて行く反対の方へどうしても俺達は逃げなけりゃならん」
 私はダンチョンへ呼びかけた。
「西南の方へ! 西南の方へ!」
 するとダンチョンが叫び返した。
「そっちへはもう火が廻っている!」
「黙って従いて来い! 黙って従いて来い!」
 そう云って西南へ方向《むき》を変えて狂人のように走り出した。ダンチョンも後からついて来る。
 見渡せばなるほど西南一帯一面に焔の海である。しかし焔の海の中にあたかも一筋の水脈《みお》のように暗黒の筋が引かれてある。どうやら一筋の谿らしい。そこまで行くには私達は大迂廻をしなければならなかった。大迂廻をするもよいけれど、向こうの谿まで行きつかない前に火事に追いつかれはしないだろうか?
 と云って、他には方法がない。
 運に任かせて私達はその大迂廻をやり出した。天の佑けとでも云うのだろう、私達が谿まで行きついた時火事もやっぱり行きついた。
 谿には河が流れていた。何より先に私達は河へ体を浸したのであった。
 こうして岸に沿いながら静かに下流へ泳いで行ったが、行手は昼のように明るくてお互いの顔の睫毛《まつげ》まで見えた。幾時間私達は流れ泳いだろう。かなり急流の河の水が全く水勢をなくなした時私達は河から這い上がって四辺を急いで見廻した。火事の光は射してはいるが、火事場からは既に遠退いている。薔薇色の火光に暈《おぼめ》かされて人間界《このよ》ならぬ神秘幽幻の気が八方岩石に囲繞された湖の面に漂っているようだ。目前に鏡のように湖が拡がっているではないか!
「湖!」
 と私は呟いた。その声は恐ろしく顫えていた。
 するとダンチョンも云うのであった。
「湖! 違いない、あの湖だろう!」
 到頭私達は来たのであった。宝庫を秘している湖へ!

    第七回 宝庫を守る有尾人種(下)


        三十四

 蕃界の夜は明け始めた。私とそしてダンチョンとは黙って湖畔に立っていた。暁の寒さが身を襲うので私達はブルブル身顫いをした。空は次第に色着いて来た。鼠色、薄黄色、薔薇色……と湖水を囲繞《とりま》いている原始林は夢から醒めて騒ぎ出した。葉は葉と囁き枝は枝と揺れ幹と幹とは擦れ合って化鳥のような声を上げる。風が征矢《そや》のように吹き過ぎる。雲のように塊《かた》まった鳥の群が薔薇色の空を右に左に競争するように翔け廻る。湖水もだんだん色着いて来た。鉛色、鯖色、淡黄色、そして次第に桃色になり原始林に太陽が昇った時には深紅の色に輝いた。
 高原に囲まれ林に蔽われ湖水を湛えたこの別天地は、こうして夜が明け太陽が出て全く昼となったのであった。恐ろしい昨夜の大山火事はどっちの方角へ燃えて行ったものか、そんな恐ろしい山火事[#「山火事」は底本では「火山事」]などは全然どこにもなかったようにこの別天地は静かであった。
 しかし私にはこの別天地があまり静かであるがためにかえって物凄く思われて来た。豹の鳴き声でも聞こえるといい、猪が林から出て来るといい、そうしたら若干南洋のボルネオの島にいるのだという境地に対する安心の念が自然に心に起こるだろうに。あまりに四辺が静かであるためかえって恐怖心が起こるのであった。
 私と同じ恐怖の念がダンチョンの心にも起こっていると見えて、疑惑に充ちた眼付きをして彼はあたりを見廻していたが、突然私の肱を突いて嗄れた声で囁いた。
「見たまえあれを! あの顔を!」
 何故か私は「顔」という言葉がこの時ゾッと身に沁みた。それで私は眼を躍らせ彼の指差す方向へ周章《あわ》てて視線を走らせた。
 顔! 顔! 人間の顔! しかも一つや二つではない。ほとんど幾十という人間の顔が藪地《ジャングル》の木《こ》の間《ま》から私達の方を瞬きもせずに瞶《みつ》めている。それは確かに人間の顔だ。人間の顔には相違ないが、それが人間の顔だとすると何んという奇怪な顔だろう! 普通の人間の顔から見るとほとんど二倍の大きさはある。そしてその顔の五分の三はセピア色の毛で蔽われていて、巨大な鉄槌で打たれたかのように低く額は落ち窪み無智の相貌を現わしている。それに反して唇は感覚的に膨《ふく》れ上がり鼻より先に突き出ている。鼻翼ばかりが拡がって全然鼻梁のない畸形の鼻は眼と口の間に延び縮みして護謨細工の玩具でも見るようである。
 私は、余りの恐ろしさに、思わずダンチョンへ縋ろうとした。
「妖怪だ妖怪だ! いや蕃人だ!」
 私は思わず呻いたが、妖怪だと思ったその蕃人の、一番前にいた一匹が藪地からヒラリと飛び上がって喬木の幹へ抱き付きスルスルと梢へ昇るのを見て、それが妖怪でも蕃人でもなく思いもよらない類人猿の有尾人種であることを知った。
「ピテカントロプスだ! 有尾人種だ!」
 私はまたもこう呻いて、にわかに失望した眼を見張って、どこかに救い主はあるまいかと前後左右を見廻した。すると同じ恐怖のために気絶しかかっているダンチョンは、私の手を堅く握りながら怯えた声で叫び出した。
「百匹! 五百匹! 一千匹! ※[#「けものへん+非」、145−9]々めが四方から押し寄せて来る!」
 なるほど、そう云えば私達を囲んで、木間や藪の蔭や丘の上から黒雲のように叢《むら》がって、蛇のような尻尾を頭の上へピンと押し立てた人猿どもが、私達へジリジリと迫って来た。
 緑の森林、澄み切った湖水、絵のように美しいこの世界は、一度に人猿の出現によって恐怖の地獄と変ったのであった。しかし私はどんな事をしても恐ろしい人猿の爪と牙から遁がれなければならないと決心した。とは云えどうして遁がれたものか? 彼らの群へ飛び込んで行って人猿どもと格闘して彼らの群から脱しようか? しかし体量五十貫もある森林の原人と闘かって打ち勝つ希望《のぞみ》があるだろうか? そんな希望は絶対にない! それでは湖水へ飛び込んで泳いで対岸へ逃げようか? しかし対岸へ行き着いたところで、その対岸の森林にはやはり人猿が住んでいるだろう! それではどうして遁がれよう? どうしたら逃げることが出来るだろう?
 一瞬の時間も無駄にせず私はここまで考えて来た。そして到頭行き詰まった。その間も兇暴の有尾人種は蕃人特有の狡猾さをもって一歩一歩私達に近寄って来た。こうして彼我の間隔が十間余になった時、彼らは一斉に立ち上がった。何んという立派な体格であろう! もしも彼らに尾がなかったなら、そして全身に毛がなかったなら勇ましい立派な武人であろう……彼らは私達を取り巻いて忽然と踊りを踊り出した。私達二人を中心にして最初グルグルと左へ廻りそれから今度は右へ廻り、またもグルグルと左へ廻りそれからまたも右へ廻る、あたかも大水が渦巻くようにいつまでもいつまでも廻るのであった。

        三十五

「こいつが彼奴らの策戦だな!」
 こう思った時にはもう私達は彼らの渦に巻き込まれて催眠状態に墜ちていた。
 ……緑……大空……人猿の顔……そして彼らの叫び声……湖水……日光……毛だらけの手……沢山の沢山の毛だらけの手が私達を地上から持ち上げた。そして緑の林を縫ってどこかへ私達を運んで行く……緑がだんだん深くなる。日光が次第に薄くなる……忽然、一人の老人が私達の前に現われた。何んという智識的の顔だろう。何んという立派な白髪《しらが》だろう。人猿達の先に立ってその老人は走って行く。人猿を指揮しているのだろう。神か? 予言者か? 救世主か? 神よ我らを助けたまえ! ……林の中は闇になった。再び日光が射して来た。緑の壁が揺れ動く。どこへ運ばれて行くのだろう? ……

 それは昔のことであった。今からざっと三十年も遡《さかのぼ》らなければならなかった。その頃一人の青年がボルネオの島を歩いていた。それは英国の動物学者で兼ねて考古学にも通じていた、青年の名はジョンソンと云ってさすが英人であるだけに冒険心に富んでいた。彼は考古学と動物学とのこの両様の学説を深く研究した結果によって、どうしても南洋のボルネオかイラン高原の大森林中に巨大な尾を持った人間が棲息しているに違いないという一つの確信を持つようになった。で彼は自分の学説がはたして確証を得るや否やを実検しようと決心した。そこで数人の同志を募り最初はペルシャの方面からイラン高原を探検した。しかしそこではそれらしい有尾人種にも逢わなかった。数人の同志は失望してそのまま英国へ帰ってしまったが、ジョンソンだけは決心を変えずに単身ボルネオへ渡ったのであった。
 彼は蕃人の襲撃や猛獣毒蛇の難を避けて長い日数を費したあげく、ようやく奥地までやって来たが有尾人種の影も見えない。自信の強いジョンソンももうこうなっては自分の説を押し通すことは出来なくなった。有尾人種などというものは浅墓《あさはか》な自分の妄想であって、世界のどこを探し廻ったところでそんなものは実際には存在しないとこう諦めざるを得なかった。
 彼はす
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