女に従いて彼女達の部落まで行って見ようと早くも決心したのであった。

 その日私と土人乙女とは部落を差して出立した。道々私は尚手真似でいろいろのことを聞き出した。私を一番驚かせたのは土人部落に私と同じような支那人がいるということであった。しかも大勢の人数であって、その大勢の支那人達は部落の土人に味方して白人達に引率《ひき》いられている侵入軍を向こうに廻して戦っているということであった。
 とにかく部落へ行って見たら万事|明瞭《はっき》りするだろうと歩きにくい道を急ぐのであった。この美しい土人乙女が縁も由緒《ゆかり》もないこの私を、どうして助けたかということも手真似によって知ることが出来た。彼女は私を一目見ると――すなわち海岸のボートの中に命も絶え絶えに気絶していた私の姿を一目見ると、南洋熱帯の乙女らしく憐れな姿の私に対して恋を覚えたということである。だから私を助けたので、そうでなければかえって私の肉を食ったろうということである。こんな恐ろしい事件《こと》を彼女は率直の手真似をもって一向平然として語るのであった。人の肉を食うダイヤル族! いかに彼女が美しくとも土人の血統は争われない。私はつくづくこう思った。そして恐ろしい蛮女によって恋い慕われるということがこの上もなく苦痛に思われた。しかし一方私にとって彼女は命の親である。燃えている彼女の熱情に向かって、無下に冷水を注ぐということも義理として私には出来なかった。しかし私には紅玉《エルビー》がある。紅玉《エルビー》! 紅玉《エルビー》! ああ紅玉《エルビー》! 紅玉《エルビー》はどこにいるのだろう? 森林の中に生死も知らずこうやって暮らしている間も一度として忘れたことはない! 息のある限りはどんなことをしてもきっと必ず探し出して見せる! ……
 それにしても蛮女が私に対する熱情と誠実とをどうしよう! 彼女はいつでも私の前を用心しいしい歩いて行く。毒蛇や猛獣の襲撃から私を防ごうためである。鰐のおりそうな川まで来ると彼女は私を背に負って素早く水を渡るのであった。
 わずか四|哩《マイル》の道程をほとんど十時間も費して土人の部落へ着いた時には既に真夜中に近づいていた。
 夜中の満月は空にかかりその蒼茫とした月光の下に、茅葺きの小屋が幾百となく建て連らなっている一劃がすなわち土人の部落であった。侵入軍を相手として合戦中であるからでもあろう部落の中は騒がしかった。私は木蔭に身を隠しながら部落の様子を窺った。諸所で焚火をしていると見えて薔薇色の火光が天に上り蒼白い煙りが立ち上っている。土人達の叫び声や矢を放す音や小銃の音さえ聞こえて来る。
 この私の驚いたことはそれらの雑音に打ち混って立派な支那語の話し声が明瞭《はっき》り聞こえて来ることであった。尚一層私を驚かせたのは北京《ペキン》で聞いた例の詩《うた》があざやかに聞こえて来ることであった。
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古木天を侵して日已に沈む
…………
巨魁来巨魁来巨魁来
[#ここで字下げ終わり]
「袁更生一味の海賊どもがあすこにいるに違いない!」
 私はすぐにこう思った。体中の血汐が復讐の念に思わずカッと燃え上がった。

        三十一

 その時土人の部落を越えた遙か向こうの森の中から閧《とき》の声がドッと上がったかと思うと、それに答えて部落からも太鼓を打つ音が鳴り響き、凱旋踊りでもするように女子供までが広場へ出て薔薇色の火光を浴びながら足を空へ上げて踊り出した。
 土人乙女はその時まで私の側に立っていたが、部落の光景《ありさま》を眺めるや否や、やはり足を空へ上げて狂気《きちがい》のように踊り出した。そして私を引っ張りながら部落の方へ走り出した。部落に近附くに従って、何が広場で行われているかそれを明瞭《はっき》り知ることが出来た。
 広場に一本の杭があって一人の人間が縛られている。たった今向こうの森の中で捕虜《いけどり》にされたものと見えて、頬の辺に生々しい切り傷の跡がついていてそこから生血が流れている。純白の服はズタズタに千|切《ぎ》れ肌さえ露骨《あらわ》に現われている。蛮人どもはそれを巡って凱旋踊《おどり》を踊っているのであった。私は捕虜の顔を見た。ダンチョン氏の顔であろうとは! 紛《まご》う方もないその捕虜は一緒に沙漠を探検した西班牙《スペイン》の画家のダンチョン氏だ! そう感付くとすぐ私は土人らが敵として戦っている白人に率いられた侵入軍とは、ラシイヌ探偵やレザール探偵達の探検隊に相違ないとこのように忽ちに連想した。
「それでは西班牙《スペイン》の探検隊はすぐ向こうまで来ているのか。それにしてもどうしてダンチョン氏は土人の捕虜になんかなったんだろう? 捕虜になったということをラシイヌ探偵達は知らないのだろうか? 探検隊の人達には私は恩を受けている。殊にラシイヌ探偵には生命をさえ助けられている。袁更生達の阿片窟に紅玉《エルビー》を尋ねて迷い入った時、私に逃げ路を教えたのは他ならぬラシイヌ大探偵だ。ラシイヌ探偵の仲間の一人のダンチョン画家が、土人のために今や生命を取られようとしている。それを目前に見ている以上義理としてでも救わなければならない。しかしどうして助けよう? どうしたら救うことが出来るだろう?」
 私は立ったまま考え込んだ。土人乙女はそれを見ると、踊っていた手を急ぎ止めて手真似《てまね》で私へ話しかけた。
「心配することは何んにもない。あなたは私を有尾人猿から救ってくれた恩人ですから、私達部落の人達はあなたを歓迎するでしょう」
 彼女が熱心に話しかける手真似の意味はこうであった。しかし私は動かない。やっぱりじっと考えている。すると彼女はまた手真似でこのように私へ話しかけた。
「あなたが不安に思うなら私が先に部落へ行ってあなたのことを話しましょう」
 それでも私は黙っていた。
 乙女は小首を傾けて私の顔を見守ったが、急に体を翻えして部落の方へ走っていった。私がここにいることを部落の人達に告げるためであろう。
 彼女の姿が綿の木の花でしばらく蔽われて見えなくなった時、私は咄嗟《とっさ》に決心してもと来た方へ走り出した。袁更生の一団が土人部落にいる以上は捕まったが最後私の生命《いのち》は失われるに決まっている。それが恐ろしく思われたからだ。
 しかし私の逃げた時は既に機会を失っていた。部落の方から追っかけて来る土人達の叫び声が刻一刻背後の方から聞こえて来る。私は方角を取り違えてただ無茶苦茶に逃げ廻った。突然行手の藪地《ジャングル》の中から支那語の叫び声が聞こえて来た。袁更生の一味の者が先廻りをしていたに相違ない。背後からは土人が追っかけて来る。彼らの持っている槍の穂先が月光にキラキラ光って見え鳥の羽根を飾った兜の峰が雑木の上から覗いて見える。
 私は進退きわまった。それからの私というものは無茶というよりも夢中であった。腰の拳銃を抜き出して土人軍に向かって連発した。確かに二、三人射殺したらしい。驚いて逃げ出す土人を見捨てて藪の中へ兎のように潜ぐり込んだ。どこをどのように歩いたものか、ほのぼのと四辺が明るいのでハッと驚いて前方を見ると、何んということだ、眼の前に土人部落の例の広場が篝《ひ》に照らされて拡がっている。そして不幸なダンチョン氏は杭にやっぱり縛られていたが四方には土人の姿もない。
 私は義侠心に揮い立った。
「ダンチョン氏を助けるのはこの機会だ!」
 そこで私は雑草を分けて広場の方へ近寄って行った。しかしその時私の心を他へ振り向けるものがあった。……私の横手の遙か向こうの木立の蔭から女の声が、夢にも忘れない恋人の、紅玉《エルビー》によく似た笑い声がさも楽しそうに聞こえて来た。それに続いて獣の鳴き声がこれも楽しそうに聞こえて来た。
 私は雷にでも打たれたように今いる位置に突っ立ったままその笑い声を聞き澄ました。繰り返し繰り返し女の声と獣の声とは聞こえて来る。どうやら女は獣を相手に戯れてでもいるらしい。
 私は四方へ注意を向け踊る心臓をしっかり抑えて声のする方へ忍び寄った。

        三十二

 明るい満月に照らされて、土人の小屋の裏庭の様子が手に取るように眺められた。霜の降ったように白く見える庭の地面に銀毛を冠った巨大な猩々《しょうじょう》が空に向かって河獺《かわうそ》のように飛んでいる。その猩々をあやすように、両手を軽く打ち合わせているのは白衣を纒った少女である。振り仰ぐ顔に月光が射して輪廓があざやかに浮かび出た。まごう方なき紅玉《エルビー》である!
 前後の事情をも打ち忘れて私は前へ走り出た。
「紅玉《エルビー》!」
 と私は絶叫して彼女を両手で抱こうとした。すると猩々が走って来て二人の仲を遮《さえぎ》った。鈴のような眼で私を睨み紅玉《エルビー》を背後へ庇《かば》おうとする。
「どなた!」
 と紅玉《エルビー》は、聞くも慕わしい昔通りの声で訊いた。
「どなたって俺に訊くのかい。張教仁だ! 張教仁だ!」
 しかし紅玉《エルビー》は感動もせずに、私の顔を見守ったが、
「張教仁さんて! どなたでしょうね? ……そうそうやっと思い出しました。そういうお方がありましたわ、ずっとずっと昔にね……羅布《ロブ》の沙漠で逢いましたっけ、芍薬《しゃくやく》の花の咲く頃まであなたと一緒におりましたわ……そして桐の花の咲く頃にあなたの所から逃げましたわ。けれどとうとう発見《みつか》って好きな好きな阿片窟からあなたの所へ連れ帰られてどんなに悲しく思ったでしょう……それからまたも逃げました。そうよ、あなたの所からよ……私には恋人がありますのよ。可愛い可愛い恋人がね! さあ銀毛や飛んでごらん! 私の恋人はお前なのよ! さあ銀毛や飛んでごらん!」
 すると彼女の命ずるままに魔性の獣の猩々は空に向かって幾回となくヒラリヒラリと飛ぶのであった。
 空には満月、地には怪獣、女神のような恋人が白衣を纒って立っている……所は蕃地で人食い人種のダイヤル族の部落である……
 ……私はグラグラと目が眩んだ。発狂するんじゃあるまいか! 一方でこんなことを思いながら片手で拳銃を握りしめ銃口を猩々に差し向けた……

 ……それから私は何をしたか判然《はっき》り自分でも覚えていない。とにかく私はダンチョンと一緒に土人に追われながら逃げていた。ダンチョンの縄を誰が解いたのか(もちろん私には相違ないが)どうして解くことが出来たのか、それさえ判然とは覚えていない――私の覚えていることは拳銃を射ったことである。いったい誰に射ったのか? 猩々に向かって射ったらしい? 何のために猩々を射ったのか? 紅玉《エルビー》を誑《たぶら》かす悪獣であるとこのように思ったからである。何故そのように思ったのかどうして説明出来ようぞ! ただ直感で思っただけだ! 私の射った拳銃の弾は不幸にも悪獣には当らなかった。ただ驚かせたばかりである。驚いた悪獣は一躍すると紅玉《エルビー》の体を引っ抱えた。そしてスルスルと立ち木に上ぼった。大事そうに紅玉《エルビー》を抱いたままヒラリと他の木へ飛び移った。こうして次々に梢を渡って林の中へ隠れ去った。それっきり彼らとは逢わないのである……。
 私とダンチョンとは物をも云わず土人の声の聞こえない方へ力の続く限り走って行った。そして全く力が尽きて二人一緒に倒れた時には夜が白々と明けていた。猛獣の害も毒蛇の害も疲労《つか》れた私達には怖くもない。そこでグッスリ寝込んだのである。
 その日の昼頃ようやく私は小屋を探し当てた。しばらく二人とも無言である。木椅子へグッタリ腰かけたままダンチョンも私も黙っている。幾時黙っていただろう? それでもやっとダンチョンは懶《ものう》い声で話し出した。
 私はダンチョンの話によって探検隊の一行が土人部落から一|哩《マイル》離れた護謨林の中に戦闘のための砦を造って立て籠もっていて、今日かもしくは明朝あたり焼き打ちの計で土人部落の総攻撃をやる筈だと、そういう事を知ることが出来た。それにもう一つその探検隊の目的というのを知る
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