宝庫を守る有尾人種(中)
二十八
私の見つけた果樹園には椰子《やし》や檳榔樹《びんろうじゅ》やパインアップルやバナナの大木が枝も撓《たわ》わに半ば熟した果実《このみ》をつけて地に垂れ下がっているのであって、その果樹園の中央所に四方を石で畳み上げた人工の泉が湧き出ていた。苔や木の葉に蔽われてはいたが、玉のような水は濁りもせず掌に掬《すく》って飲んで見ると一種の香味と甘味とを備えて大変軟らかな水である。
果樹園と泉とを見つけてからは私は急に心強くなって生活にも不安が伴わなくなった。菜食人種の私にとっては、魚肉や獣肉の食われないということもさして苦痛とは思われない――このように私が果樹園を発見したということを例の「眼に見えぬ恩人」はどこかで見ていて知ったと見えて、もはや果物や清水の類を持って来ることをしなくなった。その代りある日土人用の弓と矢とをこっそり持って来てくれた。それにもう一つ火打ち石と火打ち鎌とを持って来てくれた。おかげで私はそれ以来鳥や獣を獲ることが出来て、それらの肉を火で炙《あぶ》って賞味することが出来るようになった。私はその時まあどんなに一|摘《つま》みの塩を欲しく思ったろう! 塩を持たないこの私は果物を絞ってその液に浸してわずかに肉を食うのであった。
私の日々の生活はロビンソン・クルーソーそっくりであった。小屋で備忘録を認める。朝食として食べるものはバナナ三個に無花果《いちじく》に、椰子の果実を四分の一。昼までは私は腰かけたまま種々のことを考える。それから私は猟に行く、腰へ拳銃と弾丸帯をつけて手に土人用の弓を持って背中へ矢筒を背負った姿で林の中へ行くのであった。私は猟をしながらも例の「眼に見えぬ恩人」を探し出そうと苦心した。そして私はその恩人がどんな所に住んでいるか、彼の住んでいる土人部落を発見したいものだと思いながら林中を縦横に歩くのであった。半日林中を狩りくらして陽のあるうちに小屋に帰って夕飯の仕度にかかるのであった。夜は獣油に燈心を浸して乏しい光をそれで取った。
燈火《ともしび》は点けても心を慰める書物一冊手もとにはない! この寂しさは何んと云おう! 寂しいと云えば万事万端寂しくないものは一つもない。林を渡る嵐の音、丘で嘯《うそぶ》く豹の声、藪で唸っている狐の声。……
ある夜銃眼から覗いて見ると一匹の豹が小屋の扉を一生懸命で掻いている。この辺は木立がまばらなので月光が隙から射して来る。その月光に照らし出された豹の姿の美しさ、軟かな毛並み鮮かな斑点、人の児のような優しい手つきでセッセと爪を磨《と》いでいる。私はしばらく見ていたが内側から扉を足で蹴ると扉を掻く音をヒタと止めて、少しの間考えていたがやがて抜き足して小屋を離れて幹を伝って丘へ下りた。そして林へはいって行った。
林に住んでいる獣のうち山羊や小猿はよく慣れて毎日小屋の辺へ集まって来た。そして私から餌を貰っては喜んでそれを食べるのであった。最初は恐れていた小鳥達も次第次第に慣れて来て終いには銃眼から小屋の内へまで恐れ気もなく舞い込んで来て小鳥らしい可愛い悪戯《いたずら》をして――たとえば糞を落としたり椅子のもたれ[#「もたれ」に傍点]をつついたりして――そしてまた同じ銃眼から林の方へ帰るのであった。ある日私は山羊を捉らえて試みに乳を絞って見た。すると純白の不透明の乳液《ちち》が、椰子の実の椀に三杯取れた。それは大変味がよくてきわめて立派な飲料であった。煙草《たばこ》には不自由しなかった。野生の煙草の木がどこにでもあって立派な刻煙草《きざみ》になるからである。手製のパイプへそれを詰めて惜し気なくそれを吹かす時私は真に幸福であった。小憎らしいのは猩々である。遠くの木の股から顔を出して二日でも三日でも見守っている、弓を向けると仰天して周章《あわ》てて葉蔭へ隠れるけれど少し経つとやっぱり覗いている。嫉妬深い獣の習慣《つね》として私と戯れている小猿達を見ると、彼は猛烈に岡焼きして気味の悪い声で吠え立てて威嚇《おどか》そうとするのであった。
一|哩《マイル》ほど林を行くと蘆《あし》の茂っている川がある。そこには幾匹かの鰐《わに》がいて、獲物の来るのを待っている。ある日私は友人と一緒に――すなわち山羊や小猿を連れてその川の方へ猟に行った。間もなく川の岸へ出た。その岸を私と友人達とは喧騒《さざめ》きながら歩いて行った。すると私の目の前にいた一匹の元気のよい青年の山羊が、水を飲もうとして川へ下りた。とその瞬間褐色をした一本の材木が首を上げた。カッとその口を開けたかと思うと山羊の半身は鞠のようにその口の中へ飛び込んだ。材木と思ったのは鰐であって鰐はそのまま水音を立てて水底深く沈んでしまってどうすることも出来なかった。またある時のことであるが、やはり私は友人を連れて沼沢地方を歩いていた。蘆や薄《すすき》が生い茂ってそれが身長の倍ほども延びて空に向かって靡いている。私の友人の猿や山羊は沼沢地方が珍らしいと見えて、私より先に走って行って騒がしくお喋舌りを交《かわ》せている。ところが突然そのお喋舌りが糸を切ったように断ち切れた。
二十九
それと一緒に沼の方角で悲しそうな獣の吠え声がする。そして何物か薄を分けて沼の方へ辷って行くらしい。私はちょっと躊躇したが次の瞬間には沼を目がけて夢中のように走っていた。いずれまたきっと鰐のために友達を取られたと思ったからだ。しかし私は十間と走らず思わずギョッと立ち止まった。あまりの恐ろしさに私の体は一時にゾッと鳥肌立って頭の髪さえ逆立った。私の体で役立つものは見開いた二つの眼ばかりで手も足も力を失ってしまった。
一頭の大鹿を横に喰わえた一匹の蟒蛇《うわばみ》が蜿蜒と目の前の雑草を二つに分けて沼の方へ駛《はし》っているではないか! 私の友達の山羊や小猿がお喋舌りを止めた筈である。私さえ一声も出せなかった。蟒蛇の姿が沼の中へ全く沈んでしまった時やっと魂を取り返した。私は初めて悲鳴を上げ沼とは反対の方角へ足を空にして走り出した。すると一度に山羊も猿も私の後から叫びながら気狂いのように走って来た。
私のその時の恐怖と云ったらその夜全身発熱して二日というもの小屋の中から一歩も戸外へ出られなかったというそういう事実に徴しても知れる。全くそれは私にとっては産まれて初めての恐怖であった。
しかし間もなくその次に起こった「あり得べからざる奇怪の事件」「人類学上の一大奇蹟」その怪事件に比較してはほとんど恐怖とは云えないかもしれない。
「人類学上の一大奇蹟」! それはいったいいつ起こったのかというに、鹿を呑む大蛇を眼に見てから十日ほど経ったある日のことで、その日私は小屋に籠もって煙草ばかりポカポカ吹かしていた。小屋の外では山羊や猿や独唱好きの小鳥などが、私を呼び出そうとするかのように賑やかに絶え間なく喋舌っている。風もないかして林の中は森然《しん》と静まり返っている。
彼らの呼び出しに応じようともせず私はいつまでも室にいた。
するとにわかに彼らの声が糸を切ったように断ち切れた。糸を切ったように絶えた時にはいつでも恐ろしい彼らの敵が彼らを襲う時である。何物が襲って来たのだろうと私は耳を傾けた。その時|遙《はる》か林の方から不思議の叫び声が聞こえて来た。林に住むようになって以来かつて一度も聞いたことのない得体の知れない声である。悪漢に襲われた若い女が必死の場合に上げるような物凄い断末魔の叫び声に似てそれより一層悲しそうな声だ。私は腰掛けから飛び上がって林に向いている銃眼から声のする方を眺めて見た。私の見たものは何んであったろう? 巨大漢《ジャイアント》! 巨大漢! 否|怪物《モンスター》だ! 漆黒の毛に蔽われた身丈《みのたけ》ほとんど八尺もある類人猿《ピテカントロプス》がただ一匹樹枝を雷光のように伝いながら血走る両眼に獲物を見すえ黄色い牙を露出《まるだ》しにしてその牙をガチガチ噛み合わせながらこっちに向かって飛んで来る。彼の著しい特色というのは長い尻尾を持っていることでその尾はちょうど手のように自由の運動《はたらき》をするらしい。すなわちその尾を枝に巻きつけて全身《からだ》の重みを支えるばかりか時にはその尾を振り廻して行手を遮《さえぎ》る雑木を叩くと丈夫の生木さえその一撃で脆《もろ》くも二つに千切れて飛んであたかも鋭い鉞《まさかり》なんどで立ち割ったようになるのであった。尾を持っている類人猿《ピテカントロプス》! その有尾人猿に追いかけられて悲鳴を上げながら逃げて来るのは土人の若い女であった。長髪を背後へ吹きなびかせて恐怖に見開いた大きな眼を小屋の方へ高く向けながら足を空にして走って来る。赤銅《しゃくどう》色の逞《たくま》しい四肢は陽に輝いて白く光り腰の辺に纒った鳥の羽根は棕櫚の葉のように翻えり胸を張って駈けるその姿は土人とは云え美しい。追われるものも追うものも忽ち林を駈け抜けて丘を巡った空地へ出た。有尾人猿は樹の枝から巻いていた尻尾を放すと一緒に鞠《まり》のように地上へ飛び下りたが、両の拳を握ったり開いたり拳の先を時々地につけ牛のような肩を前のめり[#「のめり」に傍点]に出して踊るようにして追って来る。疲労《つか》れを知らない有尾人猿に次第次第に追い詰められて土人乙女は恐怖のため走る足がだんだん鈍くなった。そして小屋の中にこの私が住んでいることを知っているかのように、両手を小屋の方へ差し上げて例の悲しそうな断末魔の声を繰り返し繰り返し叫ぶのであった。乙女の叫びに誘われて私の心は揮い立った。麻痺していた手が自由になった。私は拳銃を取り上げて小屋の扉を蹴開いて縄梯子を伝わって丘へ下りた。それから少しの躊躇《ちゅうちょ》もせず乙女の方へ走って行った。こうして乙女を背後へ囲い有尾人猿の猛悪な姿へヒタと拳銃を向けた時私の勇気は挫けなかった。
不意に私が現われたことが尾のある人間を驚かせたと見えて彼は一瞬間立ち止まった。しかしその次の瞬間には雷のような嘯きを上げながら疾風のように飛びかかった。彼の両手が私の体へまさに触れようとした時に私の拳銃は鳴り渡った。しかも続けざまに三発まで。
三十
有尾人猿の山のような体がもんどり打って地に倒れると、それまで隠れていた山羊や小鳥や小猿の群が林の中からやかましく喋舌りながら現われて来た。人猿の周囲《まわり》を取り巻いて彼らは一斉に廻り出した。ちょうど凱歌でも奏するように廻りながら叫び声を上げるのであった。
土人乙女はどこにいるかと私は背後《うしろ》を振り返った。すると乙女は今までの恐怖が一度になくなったためでもあろうが、両手をダラリと脇へ垂れて人猿の姿を見守っていたが、振り返った私の顔を見ると南洋土人の熱情を現わし、いきなり私へ飛びついて逞しい腕で私を抱えて私の胸へ顔を押し当て全身を顫わせて絞めつけた。感謝の抱擁には相違ないが余りに強い腕の力で無二無三に絞め付けられ思わず悲鳴を上げようとした。乙女はそれに気がついたと見えて腕の力を弛めたがその代り今度は私の体を隙間なく唇で吸うのであった。乙女のやるままに体を委かせて私はじっと立っていたが夢中で接吻する乙女の顔へ思わず瞳を走らせた。どうして蛮女の顔だなどと軽蔑することが出来ようぞ! 何んという調った輪廓であろう! 土人特有の厚い唇もこの乙女だけには恵まれていない。欧羅巴《ヨーロッパ》人のそれのように薄く引き締まっているではないか。そしてその色の紅いことは! 珊瑚を砕いて塗りつけたようだ。高く盛り上がった厚い鼻も情熱的の大きな眼も南洋の土人というよりも欧州人に似ているのであった。
彼女の情熱が和んでから手真似《てまね》でいろいろ話して見た。その結果私の知ったことは、「眼に見えない私の恩人」というのは彼女であったということと、四|哩《マイル》を隔てた森林の中に土人の部落があるということと、今その部落は合戦最中で敵の軍中には白人がいるので手剛《てごわ》いなどということであった。
そこで私は彼
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