らしている。そしてそこには一本の櫂と一挺の短銃と若干《すこしばかり》の弾丸と万年筆と手帳とが血に穢れて散らばっている。恐らく誰かが短艇《これ》に乗って、賊から遁がれようとしたのだろう。しかるに不幸にも賊に見つかって鉄砲で撃たれて海へ落ちたのだろう。――死んでその人は不幸ではあるがおかげでこっちは大助りだ! こう思いながら四辺《あたり》を見ると既に賊船の姿はなくて今まで乗って来た汽船の影さえどこの波間にも見えなかった。私はホッと安堵してそれからボートを漕ぎ出した。間もなく日が暮れて夜が来た。激しい空腹と疲労とは私を昏睡《ねむり》に引っ張り込む。今眠っては危険である! 死に誘惑される眠りであると、心の中では思いながらいつか眠りに捕えられた。
……幾時間私は眠ったろう……
何者か私の全身を摩擦している者がある。嫋《しなや》かではあるが粗《あら》い手で私の全身《からだじゅう》を擦《さす》っている。その快い触覚が疲労と苦痛とで麻痺している私の肉体《からだ》を労《いた》わってくれる。私の意識は次第次第に恢復するように思われた。どうかして一目眼を開こう、眼を開いて私を労わってくれる親切な人を見よ
前へ
次へ
全239ページ中162ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング