後の記憶はございません。私も気絶致しましたので」
 市長夫人は沈黙した。室がにわかに寂然《しん》となった。
「大体事情は解りました」レザールがその時静かに云った。「そこで奥様のご心配は――何よりも奥様のご心配は、市長閣下の健康が以前《まえ》からあまり勝れていず、現在あまり質《たち》のよくない心臓病にかかられている、その点にあるのでございましょうね? ところで閣下のご容態はどんな塩梅でございましょう?」
「おや!」
 と夫人はまた呆れて、
「どうしてそんな事ご存知でしょう? 良人の心臓のよくないことは、私以外どなたも知らない筈ですのに」
「しかし探偵というものはこれと思う人と逢った時、ただぼんやりとその人を見守っているものではございません――顔の特徴、体の様子、そしてまた握手などする場合には、その人の脈膊をさえ計ります……市長閣下にお目にかかった時、さすがは有名な探検家として阿弗利加《アフリカ》を初め印度《インド》、南洋、中央|亜細亜《アジア》、新疆省《しんきょうしょう》と、蕃地ばかりを経巡《へめ》ぐられて太陽の直射を受けられたためか、お顔の色の見事さは驚くばかりでありましたが、さてかん
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