しょうよ」
そこで二人は肩を並べ、螢火の飛んでいる静かな道を、十歩、二十歩、三十歩、と、先へズンズン歩いて行った。そしてとうとう数え数えて、三十歩の所まで来た時に、はたして事件が起こったのであった。事件というのは他でもない。ちょうどそこまで来た時に、紅玉《エルビー》が突然苦しそうな声で、
「誰か私を引っ張って行く! 眼には何んにも見えないけれど、誰か私を引っ張って行く! 遠くで私を呼んでいる! 誰が呼ぶのか解らないけれど!」
こう叫びながら矢のように、往来を一散に走り出したのである。
張教仁の驚きは形容することが出来なかった。しばらくは往来に立ったまま、紅玉《エルビー》の姿を見送っていたが、やがて一声叫ぶと一緒に、彼女の後を追っかけた。その走って行く男女の者を、見失うまいとその後から、もう一人追っかけて行く男がある。
それはさっきの苦力であった。海の中のように蒼白い、月光の巷を三人の者は、マラソン競走でもするように、走り走り走り走り、とうとう姿が見えなくなった。
十二
紅玉《エルビー》を失った張教仁の、その後の生活は悲惨《みじめ》であった。燕楽ホテルの自分の室で、じっと悲嘆に暮れるのでなければ、北京《ペキン》の市街を夜昼となく、紅玉《エルビー》を探して彷徨《さまよ》うのであった。紅玉《エルビー》の行衛をさがすためには、彼はもちろん警務庁へもすぐに保護願いを出したのではあったが、警務庁では相手にしない。相手にしないばかりでなく、こんな事をさえ云うのであった。
「事件の性質が性質ですから、屍骸を見つけるのならともかくも、生きている女を見つけようとしても、それは不可能のことですよ。この警務庁の庁内にもそういう事件がありまして、班長が命を失いました」
こんなような訳で、警務庁では、事件を冷淡に扱かって、行衛をさがそうともしなかった。
張教仁の身にとっては、紅玉《エルビー》は仕事の相棒でもあり、二人とない大事な恋人でもあった。その紅玉《エルビー》を失ったということは、精神的にも物質的にも、大きな打撃と云わなければならない。そしてもちろん彼にとっては、物質的の打撃よりも、精神的の打撃の方が遙かに遙かに大きかった。もしも紅玉《エルビー》が永久に、彼の手に戻らないとしたならば、彼の性格はそのことのために、一変するに相違ない。
「忽然として現われて来て、私の心を捉えた女は、また忽然と消えてしまった。しかし彼女は消えたにしても、彼女が残した胸の傷は容易のことでは消えはしない。それにしても本当に紅玉《エルビー》という女は、何んという不思議な女であろう。そういう女に逢ったということは、なんという私の不運であろう」
こう思うにつけても、張教仁は、どうしてももう一度|紅玉《エルビー》を手に入れたいと焦《あせ》るのであった。彼はそれから尚|頻繁《はげし》く、北京《ペキン》の内外をさがし廻った。
こうしていつか月も経ち夾竹桃や千日紅が真っ赤に咲くような季節となり、酒楼で唄う歌妓の声がかえって眠気を誘うような真夏の気候となってしまった。
張教仁はある夜のこと、何物にか引かれるような心持ちで、かつて愛人を見失なった金雀子街の方角へ、足を早めて歩いて行った。わずか一月の相違ではあるが、薄紫の桐の花も、焔のような柘榴《ざくろ》の花も、おおかた散って庭園には、芙蓉の花が月に向かって、薄白くほのかに咲いている。
「花こそ変ったれ樹木も月も、あの時とちっとも変っていない。それだのに私の心持ちは、何んとまあ変ったことだろう」
張教仁は支那流に、このように感慨に沈みながら、トボトボと道を歩いて行った。こうしてしばらく歩いてから、何気なく彼は顔を上げて、行手を透かして眺めると、五間ほどの先を男女の者が、親しそうに肩を並べながら、ずんずん先へ歩いて行く。
後ろ姿ではあるが、夜目ではあるが、先へ歩いて行く男女のうち、女の方はどう見直しても、紅玉《エルビー》の姿に相違ない。
張教仁はうしろから、思わず声高に呼びかけた。
「紅玉《エルビー》、紅玉《エルビー》、おお紅玉《エルビー》!」
すると女は振り返った。そして歯を見せて笑ったが、そのままずんずん歩いて行く。振り返って笑った女の顔は、やっぱり紅玉《エルビー》に相違ない。張教仁はそれと知ると、嬉しさに胸をドキドキさせ、女に追い付こうと走り出した。しかしどのように走っても、不思議なことには双方の距離はいつも五間余りを隔てている。しかも先方の男女の者は、どのように張教仁が走っても、それに対抗して走ろうともせず、いつも悠々と歩くのであった。
張教仁の肉体は次第次第に疲労《つか》れて来た。今は呼吸《いき》さえ困難である。それだのに尚も張教仁は全力を挙げて走っている。そうして連呼をつづけている。
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