でも民党の有力者が殺された。そうかと思うと北方では、張作霖《ちょうさくりん》の将士が殺された。
 誰も彼も全く同一の、不思議な殺され方で死ぬのであった。すなわち眼に見えない何者かが、眼に見えない人の呼ぶ方へ、眼に見えない力で引っ張って行く。そして行衛《ゆくえ》が失われる。そして翌日は九分九厘まで大道へ屍骸を晒らすのであった。
 こういう奇怪の殺人が、頻々と行われるそのうちに、北京童《ペキンわらべ》の口からして次のような詩《うた》がうたわれるようになった。
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古木天を侵して日|已《すで》に沈む
天下の英雄寧ろ幾人ぞ
此の閣何人か是れ主人
巨魁来巨魁来巨魁来
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 北京を振り出しに、この詩は、田舎へまでも拡がった。中華民国の津々浦々で、唄うともなく童の口から、口癖のように唄われるのであった。
 古事に詳しい老人達は、訳の解らないこの詩の意味を、昔に照らして考えては見たがどういう意味だか解らなかった。

        十一

 それは明月の夜であった。金雀子街の道に添うてすくすくと立っている梧桐の木には、夜目にも美しい紫の花が、梵鐘《ぼんしょう》形をして咲いている。家々の庭園には焔のような柘榴《ざくろ》の花が珠をつづり槎※[#「木+牙」、第4水準2−14−40]《さが》たる梅の老木の蔭の、月の光の差し入らない隅から、ホッ、ホッと燃え出る燐の光は、産まれ出た螢が飛ぶのであった。
 粋な、静かな、金雀子街の、その穏かな月光の道を、体を寄せ合った男女《ふたり》の者が、今、ひそやかに通って行く。
 何か囁いてはいるらしいが、この初夏の名月の夜の、あたりの静寂《しずかさ》を破るまいとしてか、その話し声はしめやかであった。時刻は十二時に近かった。そのためでもあろうか、この平和な屋敷町の往来を行き交う人は男女《ふたり》以外にはいなかった。二人の歩く靴の音だけが、規則正しく響いている。
 この時、往来の遙か向こうから、酒に酔っているらしい男の声で、詩《うた》を唄うのが聞こえて来た。しかもその声は近づくに従って詩の文句がややはっきりと聞き取れた
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古木天を侵して日已に沈む
…………
巨魁来巨魁来巨魁来
[#ここで字下げ終わり]
 詩は北京《ペキン》で流行している例の不可解のそれであった。酔漢はその詩を唄いながら、だんだん二人へ近づいて来た。見れば、酔漢は、苦力《クーリー》と見えて、纒った支那服のあちこちに泥が穢ならしく着いている。五十を過ごした老人で、酒に酔った顔は真っ赤である。
「いよう、ご両人お揃いで」
 酔った苦力《クーリー》は、男女を見ると、こう頓狂に叫びながら、道の真ん中に突っ立ったものの、別に悪態を吐くでもなく、自分の方で二人を避けて、そのままヒョロヒョロと行き過ぎたが、擦れ違う時に、自分の肩を男の肩へぶっ付けた。
 とたんに苦力は囁いた。
「気をつけるがいいぞ張教仁!」
 囁かれた男はそれを聞くと、ピクリと体を痙攣《けいれん》させ、そのまま往来へ足を止めた。
「気を付けるがいいぞ、張教仁! 十歩。二十歩。いや三十歩かな……」
 苦力はまたも囁いたが、そのままヒョロヒョロと歩いて行く。張教仁は突っ立ったまま苦力の姿を見詰めている。彼の頭は混乱し、彼の眼は疑惑に輝いている。
「何をあなたにおっしゃったの? あの気味の悪い支那人は?」伴《つれ》の女はこう云って、不思議そうに男を見守った。
 張教仁は黙ったまま、尚も疑惑の眼を据えて苦力の姿を見送ったが、やがてクルリと振り返り女の顔をじっと見て、「気を付けるがいいぞ、張教仁! こうあの苦力は云ったのです」張教仁は眼を顰《ひそ》め、「気を付けるがいいぞ、張教仁[#「いいぞ、張教仁」は底本では「いいぞ 張教仁」]! 十歩。二十歩。いや三十歩かな。こうあの苦力は云ったのです」
「それはどういう意味でしょうね? そうしてどうしてあの苦力《クーリー》は、あなたの本名を知っているのでしょうね?」
「どうして本名を知っているか、全く合点が行きません。私の本名を知っている限りは、恐らくあなたの本名だって知っているに違いありませんよ」
「紅玉《エルビー》、紅玉《エルビー》、これが本名ね。私は名ぐらい知られたって、何んとも思やしませんよ」
「本名を知られたということは、あまり苦痛ではありませんけれど、どうして本名を知られたか、本名を知っているあの苦力《クーリー》はいったいどういう身分の者か、それが私には不思議です。不思議といえば、苦力の云った、十歩。二十歩。いや三十歩かな。この言葉の意味こそ不思議です」
「ほんとにどういう意味でしょうね」紅玉《エルビー》はしばらく打ち案じたが、「歩いて見ようではありませんか。十歩。二十歩。三十歩。その通り歩いて見ま
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