「紅玉《エルビー》、紅玉《エルビー》、紅玉《エルビー》!」と……
しかし、女はもう二度とは、振り返ろうとはしなかった。支那服を纒った肥大漢の、しかも老人に寄り添ったまま、その老人に手を引かれ、悠々と歩いて行くのであった。
すると、その時、行手から、巨大な一台の自動車が、老人の前まで走って来た。それと見た老人は手を挙げて止まれと自動車に合図をした。そして自動車が止まるのを待って、女を助けて乗らせて置いて、やがて自分も乗り移った。
その時ようやく張教仁は、自動車の側まで馳せ寄ったが、そのままヒラリと飛び乗った。
自動車はすぐに動き出した。扉がハタと閉ざされた。
「紅玉《エルビー》!」
と息づまる大声で、張教仁は呼びながら、自動車の中を見廻した。
車内には人影は一つもない!
「こりゃいったいどうしたんだ!」
彼は魘《うな》された人のように、押し詰められた声で叫ぶと共に、やにわに扉《ドア》へ飛び付いたが、外から鍵をかけたと見えて、一寸も動こうとはしなかった。
その時、今まで点もっていた、車内の電燈がフッと消えて、忽ち車内は暗黒になった。
暗黒の自動車は月光の下を、どこまでもどこまでも走って行く。
十三
暗黒の自動車は月光の下を、どこまでもどこまでも走って行く。
張教仁は暗い車内の、クッションへ腰を掛けたまま、事の意外に驚きながらも、覚悟を極わめて周章《あわ》てもせず、眼を閉じて運命を待っていた。どこをどのように走るのか、自動車は駸々《しんしん》と走って行く。いつか二つの窓をとざされ、外の様子はどんなにしても窺《うかが》うことは出来なかった。
「成るようにしか成りはしない。命をくれてやる覚悟でいたら何も驚くことはない。さあどこへでも連れて行け」
彼はこのように思っていたが、このように思っている彼をして、尚且つ魂を戦《おのの》かせるような、奇怪な事件が起こって来た。しかも他ならぬ自動車の内で。
と云うのは彼が、そう覚悟して、クッションに腰かけているうちに、どうやら暗黒のこの車内に、誰かいるような気配がした。すなわち彼と向かい合った、向こう側のクッションに、何者か腰かけているらしい。張教仁は慄然《ぞっ》とした。そして思わず声をあげた。
「いったい誰だ、そこにいるのは!」
するとはたして、向こう側から、含み笑いの声がして、
「張教仁君、怖《こわ》いかね」と、嘲笑《あざわら》いながら訊く者がある。
「怖くもなければ驚きもしない。いったい君は何者だね?」
「怖くないとは豪勢だね。が、しかしすぐに怖くなるよ。何者かと僕に訊くのかね。さあ僕はいったい何者だろう。僕が何者かはどうでもいい。僕は僕より偉大な者の使命を帯びて来たのだから、使命さえ果たせばいいのだよ」
姿の見えない向こう側の男は、こう云ってまたも笑うのであった。張教仁は恐怖よりも怒りの方がこみ上げて来た。
「使命を帯びて来たんだって!」張教仁は怒鳴り出した。
「そんならご大層のその使命をさっさと果たすがいいじゃないか!」
「それなら、そろそろ果たそうかね。君のためには急ぐよりも、ゆっくりした方がいいのだがね」
相手の男はまた笑った。
「その斟酌《しんしゃく》には及ぶまいて。君の方でゆっくりするようなら、僕の方で事件《こと》を急がせるまでだ!」
「事件を急がせるってどうするんだね?」
「君に飛びかかるということさ! 君を撲るという事さ!」
「なるほど、君は勇敢だね」
眼に見えぬ男は、こう云うと、また例の厭な笑い方を、臆面もなくやり出したが、ちょっと改まった言葉つきで、
「張教仁君、手を延ばして、君の真正面へ出すがいい、真正面の空間に、何かブラ下がっている筈だ。そいつが僕の使命なのだ」
張教仁は無言のまま、両手をズウと出して見た。はたして正面の空間に、一筋の糸で支えられた二振りの抜き身の短刀が、上の方から下がっていた。張教仁はヒヤリとしたが、度胸に狂いは生じなかった。反抗心がムラムラと彼の胸中に起こって来た。
「こいつが使命だって云うんだな。つまり人殺しの使命だな。そんな事だろうと思っていた」
「殺人の使命と云うよりも、決闘の使命と云った方が、紳士らしくてよさそうだね」
眼に見えぬ男の言葉である。同じ言葉がまた云った。
「張教仁君、二振りのうち、君の好いた方を取りたまえ。残ったのを僕の武器《えもの》としよう。そして二人で自動車の中で、切り合おうじゃあるまいか」
「理由の知れない決闘を、僕はしようとは思わないよ」張教仁は云い放した。
「がしかしそいつは不可能だ!」相手の男は威圧した。
「僕は使命に従って、君と決闘せにゃならぬ」
「君は使命に従って、それじゃ僕を殺したまえ。そうして君の親玉に、決闘して殺したと云いたまえ。僕はこうして坐っている
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