箱がございます。幾代前からか知りませんが私の家に伝わった鉄の手箱でございまして中には解らない昔の文字で何かを記した羊皮紙があると父母が申しておりました。そしてこの箱さえ持っていればどんな危難でも遁がれられると云って幼少《ちいさい》時から肌身放さず持たせられていたのでございますが、これをあなたに差し上げますからどうぞお助けくださいまし」と。私は可哀そうになりました。で私は娘に云いました。「私が助けてあげますからちっとも心配はいりません」と。そして私はその翌日乙女を私の馬車に乗せて堂々と王宮からつれ出しました。幸い誰にも咎められず英国大使館へ馬車を着け大使に乙女を任せて置いて妾は王宮へ取って返して乙女から貰った鉄の手箱を何気なく開けて見ますると、古代|回鶻《ウイグル》語で記された羅布《ロブ》の沙漠の秘密の謎があらわれて来たではありませんか。そこで私はその箱を握ってすぐに宮中を抜け出しました。皇帝の命婦を逃がしてやった罪の発覚を恐れたよりも、羊皮紙に書かれた秘密の謎のその価値のあまりに大きいのに驚いたからでございます。それから回鶻《ウイグル》語の暗示に任かせ沙漠へ来たというものです。そして私はこの沙漠の雌《めん》の水晶球を手に入れました。ですからもしももう一つの雄《おん》の水晶球を手に入れましたら二つの球を携《たずさ》えて、羊皮紙に記してあるように私達の村から十里へだてたロブノール湖へ船を浮かべて地下に建てられた都会へまで流れて行くことが出来るのです。そしてその都会へ着いた時二つの球は奇蹟をあらわし巨億の宝の隠れ場所を私達に示すことになっております。
 同じ東洋人なる支那の貴公子よ! 雄《おん》の珠を奪っていらっしゃい。妾と土耳古《トルコ》の民族の最初の祖先の回鶻《ウイグル》人が国家の亡びるその際にひそかに隠したそれらの富を一緒にさがそうではありませんか。雌《めん》の玉の持ち主である沙漠の「老人」が、私達のために湖水まで案内をするそうです。
 あなたは難解な回鶻《ウイグル》語を――羊皮紙に書いてあった回鶻《ウイグル》語を、どうして妾が読み得たかきっと不思議に思われるでしょう、がそれには理由がございます。今も手紙に書きました通り回鶻《ウイグル》人は土耳古《トルコ》民族の最初の祖先なのでございます。土耳古《トルコ》宮廷にいるほどの者は必ず回鶻《ウイグル》語の初歩ぐらいは大概読めるのでございます。羊皮紙に書かれたあの文字はきわめて簡単でございました。
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 三回目の密書を読んだ時私はようやく決心した。球を盗もうと決心した。汽車中の出来事があって以来ラシイヌ達はこの私を極度にまでも信用して球の入れてある鉄の箱をついには私に預けさえもした。つまり彼らはこの私を同志の一人に加えたのであった。球を奪うことは容易であった。一夜、満月の明るい晩ついに私は目的をとげ、土耳古《トルコ》美人の住んでいる緑地《オアシス》へまで落ち延びた。常磐木、泉、土人の小屋、他には魚が泳いでいるし木々には小鳥が啼いている。緑地は住みよさそうに思われた。常磐木の間に祠《ほこら》がある。石の狛犬《こまいぬ》がその社頭に二匹向かい合って立っている。「沙漠の老人」と土耳古《トルコ》美人とは私を祠へつれて行って私に拝めと云った。無宗教の私は云われるままに祠に向かって三拝した。
 と老人が私に云った。「若者よ、これは吾らの神じゃ。吾ら羅布《ロブ》人の神なのじゃ。そして羅布《ロブ》人は回鶻《ウイグル》人じゃ。数千年の昔から今日まで他人種の血液を混じえずに純粋に残った回鶻《ウイグル》人は吾ら羅布《ロブ》人ばかりなのじゃ。吾ら純粋の羅布《ロブ》人はここの緑地《オアシス》に集まって吾らの唯一の守り本尊アラなる神を祠に祭りアラ大神の使者の燐光を纒った狛犬を神の権化と懼《おそ》れ恭い、数千年住んで来た。しかるに今から数年前|西班牙《スペイン》人の探検隊が羅布《ロブ》の沙漠へ襲って来て神の祠を破壊して経文の一部と羊皮紙と箱に納めた雄の球とを何処《いずこ》ともなく奪い去った。吾らの怒りは頂点に達し神に復讐の誓いをして、西班牙《スペイン》人の探検隊の頭目の行衛を探索した。そして計らずもその頭目が西班牙《スペイン》の首府のマドリッドの市長の要職にいると聞き吾らは雀躍して喜んだ。そこで一隊の暗殺団をマドリッドへ向けて送ってやった。そして巧妙なる手段をもって最初に経文を取り返した。そしてその次には他の一団が――それも沙漠から送ったのだが――その二回目の暗殺団が市長の胸へ短刀の切尖《きっさき》を深く突きさした。市長はしかし死ななんだ。死なないばかりか決心して、ラシイヌなどという私立探偵へ水晶の球と羊皮紙を託し沙漠の秘密を探らせようと探検隊を組織させた。――ラシイヌ達の一行はこの二回目の
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