に充ちていた。ある夜突然空の上から微妙な音楽が聞こえて来た。多数の男女の笑う声も。しかしもちろん姿は見えなかった。音楽も風のように消滅した。そうかと思うとまたある晩は氷塊と駱駝とを盗まれた。氷塊も駱駝も私達にとっては命と同じに大事なものだ。みんなはすっかり恐怖した。そうして厳しく警戒した。またある晩は木片の面へ不思議な文字を書きつけたものが天幕《テント》の中へ投げ込まれた。博言博士はそれを見ると顔色を変えて説明した。
「これがすなわち回鶻《ウイグル》語じゃ。誰がいったい書いたんだろう。まだ墨痕は新らしいが」それからその語を翻訳した。
「――沙漠の霊を穢《けが》すなかれ。汝らの最も尊敬する貢物を捧げて立ち去らざれば、沙漠の霊汝らを埋ずむべし――」
 突然ラシイヌが笑い出した。
「これで正体がほぼわかった! もう心配をする必要はない。黙って放抛《うっちゃ》っておくんだね。そのうちに僕が悪戯者《いたずらもの》の沙漠の霊を捉らまえてやる」
 しかし博士のマハラヤナは印度《インド》人の常として迷信深く不安そうにしばらくの間考えていたが、
「あらゆる物には霊魂がある。沙漠にも霊魂はある筈だ――そこで思うにこの霊は数千年のその昔にこの地へ国を立てていた楼蘭という土耳古《トルコ》族の家国の霊かも知れません。もしそうなら祀らねばならん」
「何をいったい祀るんです」ラシイヌは益※[#二の字点、1−2−22]笑いながら、「決してご心配には及びません。まあご覧なさいその霊めをきっと捉えて見せますから」
 自信の籠もったこの言葉はそれまで不安に襲われていた土人達の心を一掃した。

 回鶻《ウイグル》語で記した木片が天幕《テント》へ投げ込まれたそれ以前から、誰が入れるのか解らないが、私の服のポケットへは女文字で記した仏蘭西《フランス》語の紙が一再ならずはいっていた。最初の紙にはこう書いてあった。
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 同じ東洋人なる支那の貴公子よ、妾《わらわ》を固く信じ給え、西班牙《スペイン》の愚人の守りおる彼の水晶球を奪い取り妾の住居へ来たりたまえ。
[#ここで字下げ終わり]
 第二の手紙にはこう書いてあった。
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 早く決心なさりませ。奪い取った球を手に握って沙漠を東北へお逃げなさい。里程《みちのり》にして約二里半を足に任せてお逃げなさい。そうしたら村落《むら》に行きつくでしょう。沙漠に立っている羅布《ロブ》人の村! 人口は約二百人、飲まれる泉が湧いています。青々と常磐木《ときわぎ》が茂っています。沼には魚が住んでいて葦《あし》の間には水禽《みずとり》がいます。住民はみんなよい人です。音楽と盗みとが上手です。沢山の伝説を持っています。彼らの中の頭領は七十に近い老人です。綽名《あだな》を沙漠の老人と云って幾個《いくつ》かの伝説と幾個かの予言と幾個かの迷信とに養われている魔法使いのような翁《おきな》です。住民の家は灰色で土で造ってありますけれど老人の家だけは木造りでしかも真紅に塗られています。真紅な家へいらっしゃい。そこに私がいるのです。
 可愛らしい支那の貴公子よ。妾《わたし》の言葉を信じなさい。東洋人同志ではありませんか。
[#ここで字下げ終わり]
 第三の手紙は昨夜来た。次のような文句が記してあった。
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 私はあなたに命じます! 今度こそ実行なさいましと。しかしあなたはこのわたしをきっと疑っておいででしょう。あなたの疑いを晴らすためわたしの素性を申し上げましょう。私は土耳古《トルコ》の将軍でピナンという者の二番目の娘のエルビーという女です。私は宮廷で育ちました。皇后の侍女頭をしていました。ある夜新しい命婦《めいぶ》のために皇帝は夜会をひらかれました。諸国から献ぜられた五人の命婦はいずれも憂欝な顔をして席に控えておりました。五人のうちで一番若い――十七位の波斯《ペルシャ》乙女はわけても悲しそうな様子をして眼を泣き脹らしておりましたので妾の注意をひきました。宴会が終えて命婦達が各自の椒房《ハレム》へ帰った時、私は皇后の許しを受けて命婦達を慰問に行きました。例の十七の可哀そうな命婦の華麗な椒房《ハレム》へ行って見ると、可憐の乙女は寝台の上でシクシク泣いておりました。私は侍女を遠ざけてから乙女に慰めの言葉をかけてその身の上を尋ねました。乙女の言葉によりますと、乙女は波斯《ペルシャ》でも由緒正しい絹|商人《あきんど》の愛娘で、その時からちょうど一月前、父母に連れられてコンスタンチノーブルへ観光に来たのだそうでございます。ところが白昼|誘拐《かどわ》かされ朝廷の大官に売られたのをその大官がさらにそれを皇帝に献じたということです。娘は私に云うのでした。「どうぞここから逃げられるようにお取り計らいくださいまし。ここに手
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