水の水が湛えているのに、今は一丈余の断崖となって森林を背負って立っている。つまりそれだけ湖水の水が地下に吸い込まれてしまったのである。
 こうして私達はどれほどの時間湖水の面に漂っていたか考えて見ることも出来なかったが、とうとう船が渦に巻かれて湖心に出来ている水穴の中へ正に落ち込もうとした時に、天佑とでも云うのであろうか、忽然と水穴が閉ざされ大渦巻が運動を止め湖面は再び鏡のように日光を吸って輝き出した。
 私達は初めて元気付いて力を極めて船を漕いだ。そして土人軍の屯ろしている湖水の岸へよじ[#「よじ」に傍点]登った時、蘇生したような気持ちがした。
 湖水の水はその容積の三分の二余りを減じていた。水草が水面に旗のように流れ、幾匹かの恐龍と雷龍とが巨大の首を水から出して私達の方を眺めている。水禽は一羽もいなかった。岸に近い水は森林を映し、岸に遠い水は空をひたしていとも平和に澄んでいる。
 あの素晴らしい渦巻の恐ろしかった光景はどこを眺めても見当らない。水はいかにも減じてはいるが、太古のままの夢を孕《はら》んで森然《しん》と静まり湛えている。
 私達は互いに眼を見合わせ一言も物を云わなかった。豪雄のラシイヌ探偵さえ空しく湖水を眺めるばかりで、陽に焼けて黒いその顔には驚異の情ばかりが浮かんでいる。
 こうして私達は湖水の岸にしばらくの間佇んでいた。
 その時、またも湖水の面に以前《まえ》と同じ奇蹟が行われた。湖心のあたりに蒼黒い穴が忽然と一つ現われたが、そこを目がけて湖中の水が渦巻きながら押し寄せて行く。
 何んという奇観! なんという壮大! 湖中に流されて眺めるのと湖岸に立って見渡すのと、こうまで相違があるものであろうか!
 ……見渡す眼下の湖水の水は何物にか引かれてでもいるかのように渦の外輪は大波を立て、渦の内輪は独楽《こま》のように澄み切った速さで廻っている……名も知らぬ畸形の海獣や巨大な水牛やトラコドンは、その渦巻に巻かれまいと水沫《しぶき》を立てて狂い廻りながらしかも水勢には争い難くやはり渦巻に巻かれたまま蒼黒い水穴――死の漏斗《じょうご》へ、一刻一刻近寄って行く、……死の水穴の縁のあたりには落ち込む水が斬り合って水蒸気の雲を濛々と立て陽に輝いて眼も眩むような鮮かな虹を懸けている……虹の花輪に飾られた蒼黒い漏斗、死の水穴は、落ち込む水をすぐ捉らえて、漏斗に入れられた酒や水が漏斗形にグルグル廻りながら下の容器《いれもの》にしたたるように捉えられた水は穴の内面を眼にも止まらぬ勢いで漏斗形に駸々《しんしん》と馳せ廻り、次第に下へ次第に下へグングン廻って落ちて行く……。

        四十一

 ……今、水牛が穴の中へもんどり[#「もんどり」に傍点]打って投げ込まれた。水勢は忽ちそれを捉らえて穴の内面を漏斗形にグルグルグルグルとぶん[#「ぶん」に傍点]廻した。もがく事さえ出来ないと見えて四足を高く持ち上げたまま余りに水勢が劇しいため水中に深く沈むことも出来ず全身を水面へ露出したまま虹の花輪のその真下で死の輪舞を続けていたがやがて次第に水勢に巻かれて下の方へ下の方へと落ちて行き忽ち姿は見えなくなった。次から次と様々の獣が今の水牛と同じように渦巻に散々揉まれたあげく例外なしに水穴へ落ちると、同じように漏斗形に廻り廻ってやがて地底へ引き込まれて行く……そして水穴の縁の辺には水蒸気の雲が立ち迷い虹がキラキラと輝いている。……見る見るうちに水は減り周囲の岸が高く峙立《そばだ》ち、湖底が徐々に露出《あらわ》れて来た。
 ――私の書き記す備忘録には少しの偽りも記してない。偽りを書かない備忘録へ私はこの後の光景を実に次のように書いたのである。……

 やがて湖水は全く涸れて、いつか渦巻も消えてしまった。そしてその後へ残ったものは欝々《うつうつ》たる原始林に取り囲まれた火山岩で造られた大穴である。所々の水溜には小魚がピチピチ刎ねているし水草が岩石にからまっている。底には砂礫が溜まってはいるが泥はほとんど見あたらない。砂礫に埋もれて恐龍の死骸が幾個もあちらこちらに転がっている。
 私達始め土人達は湖水の跡へ下りて行って各※[#二の字点、1−2−22]勝手の探検をした。
 私達は渦巻の起こったほとりの湖水の底とも覚しい辺へ急いで足を向けて行ったがそこには直径一町もあるような大磐石があるばかりで穴らしいものの影もない。ダイナマイトを取り寄せて念のため大石を砕いて見たが岩の破片が飛ぶばかりで大磐石は動こうともしない。
 それからいったい湖水の水はどこへ流れて行ったのであろう? そして巨大な獣はどこへ行衛を眩ましたのであろう?
 空は蒼々と照り渡り森林は粛然と立っているが、私達の疑問は解けようともしない。誰も彼も黙然と押し黙って四辺を見廻すばかりである。

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