》はここまでは届いて来なかった。
 私とそしてダンチョンとは有尾人猿の王だという不思議な老人の捕虜となって岩窟の中へ連れて来られ、老人の伝奇的の経歴を老人の口から聞かされてどんなに不思議に思ったろう。しかし私達は疲労《つか》れていた。それで老人の話の間にいつか昏々《すやすや》と眠ったらしい。
 やがてようやく目覚めた時には翌日の真昼になっていた。私達は老人の許しを得て岩窟の外へ出る事にした。
 日光の洪水! 青葉の輝き! そして紺青の湖の底の知れない深い色! それらの色彩に眩惑されて私達はしばらく佇んだ。藪地の中から聞こえるものは人猿達の声である。それさえ今日は穏しい人間の声のように思われる。
 私達二人は湖岸へ行ってそこでまたもや彳んだ。
「神秘の湖水! 神秘の湖水!」
 私は思わずこう呟いてダンチョンの顔を見返った。「そうだ」とダンチョンも呟いて私の顔を見返した。
「私達二人が真っ先に神秘の湖水を見付けたのだ。だから今度は真っ先に湖底を探る権利がある……羅布《ロブ》人の宝庫、巨億の宝が底に隠されてある筈だ」
 ダンチョンの声は感激のために弓の絃《つる》のように戦慄した。私はそれを手で制して無言で湖水を見守っていた。その時、眼前の湖水の水が左右に山のように盛り上がり見る見る崩れたその中から丘のようなものが現われた。と見て取った一瞬間、水中の丘から十間も離れた水藻の浮いている水面から水沫《しぶき》を颯《さっ》と上げながら空中にヒラヒラと閃めいたのは、蟒蛇《うわばみ》に似た顔である。
「雷龍《プロントザウルス》!」と私の口から驚異の声が飛び出した。
 その時ダンチョンは遙か向こうの森林を指で差しながら、
「大きな蜥蜴《とかげ》が飛んでいる!」
 と恐怖に充ちた声で云った。
 全く彼の云う通り、二十尺もある大蜥蜴[#「大蜥蜴」は底本では「大蜥蝪」]が肩に付いた翼を羽搏きながら木から木へ龍のように飛んでいる。そしてその側の藪を分けて、豺《さい》と象とを合わせたような八、九間もある動物が二本の角を振り立て振り立て野性の鼠を追っかけている。それは確かに恐龍である。雷龍といいまた恐龍と云いいずれも今から数十万年前、地球に住んでいた動物で、それは人猿と同じように数十万年前のその昔に悉《ことごと》く滅びた筈である。それだのに人猿と相伴なってボルネオの奥地に棲息し二十世紀の今日まで生存《いきながら》えていようとは正に世界の驚異である。
 私とダンチョンとはこの驚異にすっかり魂を怯かされて湖水の岸から逃げ出した。
 そして岩窟《いわや》へ帰ったのである。

        三十七

 猛悪の人猿の社会にも幾個かの不文律が行われていた。自分の所有でない雌性《めす》に対しては決して乱暴をしない事。人猿以外の敵に対しては一同団結して対《むか》うこと、食物は一時に貪らず一ヵ所に集めて貯える事……これらが主なるものであった。この不文律の執行者が彼らの王たる老人で、老人の課する刑罰をば人猿どもは怯じ怖れた。
 人猿達の生活は極端に自由で快活であった。彼らは木の上で生活しまた木の上で睡眠《ねむり》を取りそして木を渡って遊戯した。彼らの日常の食物は木《こ》の実《み》、草の根、鳥獣などで、彼らは勤勉によく働いて沢山の食物を漁るのであった。湖水を中心に原始林は十里四方に拡がっていたが十里四方の大森林こそ人猿達の王国であった。彼らは広大のこの森林で数十万年の昔から数十万年後の今日まで、子を産み、育て、繁殖し、ダーイニズムより超越して、原始的生活の範疇《はんちゅう》内でその生活を存続し、今日にまで至ったのであった。それにしてもどうして長く逞《たくま》しい尻尾を持っているのだろう? それは格別不思議でもない。恐らくは彼らはあの尻尾を数十万年の昔から数十万年後の今日まで、盛んに使用して来たのだろう。そのため尻尾があのように立派に発達したのであろう。利用即発達の大真理が、ここで用立った訳である。
 ある日、私とダンチョンとは森林の中を彷徨《さまよ》っていた。私達の跡を追いながら沢山の人猿が木を渡っていつまでもいつまでも従《つ》いて来た。森林の案内に通じていない私達を警戒するのでもあろう時々私達の先へ立って、方角を指で差したりした。行くに従って森林は益※[#二の字点、1−2−22]厚く繁茂して陽光《ひのひかり》さえ通らない。私達の足音に驚いて狐や兎が逃げ出したり、臭猫《くさねこ》が茨を潜りながら狐猿《レムール》の隠れた同じ穴へ周章《あわ》てふためいて飛び込んだり、群れて遊んでいた手長猿が一度にギャッと叫びながら枝から枝へ遁がれたりした。
 不意に私達の面前へ大猩々《ゴリラ》が姿を現わした時には恐怖のために足を止めた。しかし危険はちっともない。人猿が[#「ちっともない。人猿が」は
前へ 次へ
全60ページ中52ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング