っかり失望してどうしてよいか解らなくなった。猛獣の難を避けるため高い護謨の樹の頂きへ小屋を造ってその中で彼は幾日も考えたが、どうもこのままここを見棄てて立ち去ることが残念に思われ、やはりこのままこの地にとどまり、有尾人種はいないにしても他に珍らしい動物どもが沢山群れ住んでいるによって、せめてそれらを研究しようとようやく彼は決心した。で彼は真っ先に自分の住む小屋の修繕に着手した。それから食物と飲料水とを小屋の近くに発見してそれに改良を加えたりした。体を保護する武器としては拳銃一挺に弾薬若干とそして一振りの洋刀《ナイフ》だけで他には何にも持っていない――虎の啼き声、豹の呻き、月影蒼い夜な夜な群れて襲って来る狼などの物凄い吠え声に怯《おびや》かされながら、こうして蕃界奥地の生活がジョンソンの上に始まったのであった。
一年二年――三年四年――五年の月日が経過した。森林に住んでいる鳥や獣のほとんど総《すべ》てと親しくなりほとんど総てを研究した。彼にとっては虎も豹も恐ろしいものではなくなった。性来《もとより》壮健の肉体が蕃地の気候に鍛練され猛獣と格闘することによって一層益※[#二の字点、1−2−22]壮健になり猿族と競争する事によって彼は恐ろしく敏捷となった。そうして彼はもうこの時には有尾人種の存在については全く前説を否定して考えさえもしなかったが、彼、すなわち、ジョンソン自身がちょうど人猿そのもののように完全の野人になり切っていた。森林を走るに、枝から枝幹から幹を伝わって風のように速く走ることも出来た。高い梢の頂上から藪地《ジャングル》の上へ飛び下りても少しも怪我をしないほど軽くその身を扱いもした。
何んという愉快な生活だろう。何んという原始的の生活だろう。これがすなわち我らの祖先――人猿そのものの生活なのだ! 自然の食物、自然の飲料、自然の遊戯、自然の睡眠、ここには何らの虚栄もない。そして何らの褥礼もない。過去において自分が生きていたあの欧羅巴《ヨーロッパ》の社会生活もこれに比べたら獄屋のようなものだ。自分は心から謳歌する。この森林の生活を……
ジョンソンは実際こう思ってこの蕃界の生活を恐れるどころか愛していた。そして再び欧羅巴《ヨーロッパ》などの虚飾に充ちた社会生活へは帰って行くまいと決心した。
彼は鳥獣を愛《いつく》しみ鰐魚《わに》をさえも手《て》なずけた。彼には鳥獣の啼き声やあるいはその眼の働きやもしくは肢体の蜒《うね》らし方によってその感情を知ることが出来た。そして彼らが何を要求し何を嫌うかを察することが出来た。で彼は彼らの要求する事を飽きもせずに彼らにしてやった。その代り彼らも彼のためにいろいろの用事を足してやった。
三十六
ある天気のよい日であったが、彼はその時小屋を出て小丘の上に坐っていた。
突然前方の森林の中から鳥獣の悲鳴が聞こえたが、それと一緒に藪地《ジャングル》を分けて虎が一匹走り出した。その虎の跡を追っかけて同じ藪地《ジャングル》から出て来たのは――思いもよらない有尾人猿で、それと知った彼の驚きは形容することも出来なかった。彼はやにわに飛び上がり、その人猿に向かって行った。鋭い咆哮! 烈しい叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]! ……さしもの人猿もジョンソンのために胸を蹴られて転がった。
こういう出来事があってから数日経過したある日のこと、いつも小屋にいたジョンソンの姿がどこへ行ったものか見えなくなった。そしてジョンソンと慣れ親しんでいた無数の鳥獣を悲しませた。
既にこの時は、ジョンソンは、生け捕った人猿を案内にして原始林と湖水とで飾られた太古のままなる神仙境へ足を踏み入れた時であった。
幾年か幾年か時が経った。
巴里《パリ》や倫敦《ロンドン》では幾万の人がこの世から死にまた産まれた。……
もちろん、蕃地の南洋でも、鳳梨《あななす》の実が幾度か熟し無花果《いちじく》の花が幾度か散った。そして老年の麝香猫や怪我をした鰐が死んだりした。
幾度か年は過ぎ去った。青年も老人になる頃である。金髪も白髪となる頃である。若い英国の動物学者がボルネオの奥地へ小屋を造って、鳥や獣を相手にして自由の生活をしていた時から既に三十年も経っていた。それでもやっぱり護謨の樹の上には木で造った小屋が立っていた。
……この頃、湖水と原始林とで美しく飾られた神仙境――すなわち人猿の住居地《すみか》には、有尾人以外に老人が――紛れもない欧羅巴《ヨーロッパ》の人間があたかも人猿の王かのように彼らの群に奉仕されて、いとも平和に住んでいた。
岩窟の内は暗かった。獣油で造った蝋燭《ろうそく》が一本幽かに燈もっていて私達二人と老人とをほのかに照らしているばかりで、戸外《そと》から射し込む陽光《ひのひかり
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