かのように低く額は落ち窪み無智の相貌を現わしている。それに反して唇は感覚的に膨《ふく》れ上がり鼻より先に突き出ている。鼻翼ばかりが拡がって全然鼻梁のない畸形の鼻は眼と口の間に延び縮みして護謨細工の玩具でも見るようである。
 私は、余りの恐ろしさに、思わずダンチョンへ縋ろうとした。
「妖怪だ妖怪だ! いや蕃人だ!」
 私は思わず呻いたが、妖怪だと思ったその蕃人の、一番前にいた一匹が藪地からヒラリと飛び上がって喬木の幹へ抱き付きスルスルと梢へ昇るのを見て、それが妖怪でも蕃人でもなく思いもよらない類人猿の有尾人種であることを知った。
「ピテカントロプスだ! 有尾人種だ!」
 私はまたもこう呻いて、にわかに失望した眼を見張って、どこかに救い主はあるまいかと前後左右を見廻した。すると同じ恐怖のために気絶しかかっているダンチョンは、私の手を堅く握りながら怯えた声で叫び出した。
「百匹! 五百匹! 一千匹! ※[#「けものへん+非」、145−9]々めが四方から押し寄せて来る!」
 なるほど、そう云えば私達を囲んで、木間や藪の蔭や丘の上から黒雲のように叢《むら》がって、蛇のような尻尾を頭の上へピンと押し立てた人猿どもが、私達へジリジリと迫って来た。
 緑の森林、澄み切った湖水、絵のように美しいこの世界は、一度に人猿の出現によって恐怖の地獄と変ったのであった。しかし私はどんな事をしても恐ろしい人猿の爪と牙から遁がれなければならないと決心した。とは云えどうして遁がれたものか? 彼らの群へ飛び込んで行って人猿どもと格闘して彼らの群から脱しようか? しかし体量五十貫もある森林の原人と闘かって打ち勝つ希望《のぞみ》があるだろうか? そんな希望は絶対にない! それでは湖水へ飛び込んで泳いで対岸へ逃げようか? しかし対岸へ行き着いたところで、その対岸の森林にはやはり人猿が住んでいるだろう! それではどうして遁がれよう? どうしたら逃げることが出来るだろう?
 一瞬の時間も無駄にせず私はここまで考えて来た。そして到頭行き詰まった。その間も兇暴の有尾人種は蕃人特有の狡猾さをもって一歩一歩私達に近寄って来た。こうして彼我の間隔が十間余になった時、彼らは一斉に立ち上がった。何んという立派な体格であろう! もしも彼らに尾がなかったなら、そして全身に毛がなかったなら勇ましい立派な武人であろう……彼らは私達を取り巻いて忽然と踊りを踊り出した。私達二人を中心にして最初グルグルと左へ廻りそれから今度は右へ廻り、またもグルグルと左へ廻りそれからまたも右へ廻る、あたかも大水が渦巻くようにいつまでもいつまでも廻るのであった。

        三十五

「こいつが彼奴らの策戦だな!」
 こう思った時にはもう私達は彼らの渦に巻き込まれて催眠状態に墜ちていた。
 ……緑……大空……人猿の顔……そして彼らの叫び声……湖水……日光……毛だらけの手……沢山の沢山の毛だらけの手が私達を地上から持ち上げた。そして緑の林を縫ってどこかへ私達を運んで行く……緑がだんだん深くなる。日光が次第に薄くなる……忽然、一人の老人が私達の前に現われた。何んという智識的の顔だろう。何んという立派な白髪《しらが》だろう。人猿達の先に立ってその老人は走って行く。人猿を指揮しているのだろう。神か? 予言者か? 救世主か? 神よ我らを助けたまえ! ……林の中は闇になった。再び日光が射して来た。緑の壁が揺れ動く。どこへ運ばれて行くのだろう? ……

 それは昔のことであった。今からざっと三十年も遡《さかのぼ》らなければならなかった。その頃一人の青年がボルネオの島を歩いていた。それは英国の動物学者で兼ねて考古学にも通じていた、青年の名はジョンソンと云ってさすが英人であるだけに冒険心に富んでいた。彼は考古学と動物学とのこの両様の学説を深く研究した結果によって、どうしても南洋のボルネオかイラン高原の大森林中に巨大な尾を持った人間が棲息しているに違いないという一つの確信を持つようになった。で彼は自分の学説がはたして確証を得るや否やを実検しようと決心した。そこで数人の同志を募り最初はペルシャの方面からイラン高原を探検した。しかしそこではそれらしい有尾人種にも逢わなかった。数人の同志は失望してそのまま英国へ帰ってしまったが、ジョンソンだけは決心を変えずに単身ボルネオへ渡ったのであった。
 彼は蕃人の襲撃や猛獣毒蛇の難を避けて長い日数を費したあげく、ようやく奥地までやって来たが有尾人種の影も見えない。自信の強いジョンソンももうこうなっては自分の説を押し通すことは出来なくなった。有尾人種などというものは浅墓《あさはか》な自分の妄想であって、世界のどこを探し廻ったところでそんなものは実際には存在しないとこう諦めざるを得なかった。
 彼はす
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