恐怖に充ちた人間の叫びが背後《うしろ》の方から聞こえて来た。振り返る間もなく、私達の横を飛鳥のように駈け抜けて行くのはダイヤル部落の土人達で武器さえ手には持っていない。もちろん私達を認めても襲って来ようともしなかった。火足から遁がれよう遁がれようとそればかり焦せっているようだ。
 火足は間近に迫って来た。ちょうど紅でも流したように深林の中は真紅である。熱に蒸されて私の背中は滝のように汗が流れている。この大危険の最中にも私はこんなことを考えた。
「土人と一緒に逃げてはならん。土人の行く方へ行ってはならん。彼ら蛮人の常としていつ心が変るかもしれん。幸いに深林を出外れてたとえ草原へ出たところで、そこで土人に襲われたらやっぱり命を失ってしまう。土人の逃げて行く反対の方へどうしても俺達は逃げなけりゃならん」
 私はダンチョンへ呼びかけた。
「西南の方へ! 西南の方へ!」
 するとダンチョンが叫び返した。
「そっちへはもう火が廻っている!」
「黙って従いて来い! 黙って従いて来い!」
 そう云って西南へ方向《むき》を変えて狂人のように走り出した。ダンチョンも後からついて来る。
 見渡せばなるほど西南一帯一面に焔の海である。しかし焔の海の中にあたかも一筋の水脈《みお》のように暗黒の筋が引かれてある。どうやら一筋の谿らしい。そこまで行くには私達は大迂廻をしなければならなかった。大迂廻をするもよいけれど、向こうの谿まで行きつかない前に火事に追いつかれはしないだろうか?
 と云って、他には方法がない。
 運に任かせて私達はその大迂廻をやり出した。天の佑けとでも云うのだろう、私達が谿まで行きついた時火事もやっぱり行きついた。
 谿には河が流れていた。何より先に私達は河へ体を浸したのであった。
 こうして岸に沿いながら静かに下流へ泳いで行ったが、行手は昼のように明るくてお互いの顔の睫毛《まつげ》まで見えた。幾時間私達は流れ泳いだろう。かなり急流の河の水が全く水勢をなくなした時私達は河から這い上がって四辺を急いで見廻した。火事の光は射してはいるが、火事場からは既に遠退いている。薔薇色の火光に暈《おぼめ》かされて人間界《このよ》ならぬ神秘幽幻の気が八方岩石に囲繞された湖の面に漂っているようだ。目前に鏡のように湖が拡がっているではないか!
「湖!」
 と私は呟いた。その声は恐ろしく顫えていた。
 するとダンチョンも云うのであった。
「湖! 違いない、あの湖だろう!」
 到頭私達は来たのであった。宝庫を秘している湖へ!

    第七回 宝庫を守る有尾人種(下)


        三十四

 蕃界の夜は明け始めた。私とそしてダンチョンとは黙って湖畔に立っていた。暁の寒さが身を襲うので私達はブルブル身顫いをした。空は次第に色着いて来た。鼠色、薄黄色、薔薇色……と湖水を囲繞《とりま》いている原始林は夢から醒めて騒ぎ出した。葉は葉と囁き枝は枝と揺れ幹と幹とは擦れ合って化鳥のような声を上げる。風が征矢《そや》のように吹き過ぎる。雲のように塊《かた》まった鳥の群が薔薇色の空を右に左に競争するように翔け廻る。湖水もだんだん色着いて来た。鉛色、鯖色、淡黄色、そして次第に桃色になり原始林に太陽が昇った時には深紅の色に輝いた。
 高原に囲まれ林に蔽われ湖水を湛えたこの別天地は、こうして夜が明け太陽が出て全く昼となったのであった。恐ろしい昨夜の大山火事はどっちの方角へ燃えて行ったものか、そんな恐ろしい山火事[#「山火事」は底本では「火山事」]などは全然どこにもなかったようにこの別天地は静かであった。
 しかし私にはこの別天地があまり静かであるがためにかえって物凄く思われて来た。豹の鳴き声でも聞こえるといい、猪が林から出て来るといい、そうしたら若干南洋のボルネオの島にいるのだという境地に対する安心の念が自然に心に起こるだろうに。あまりに四辺が静かであるためかえって恐怖心が起こるのであった。
 私と同じ恐怖の念がダンチョンの心にも起こっていると見えて、疑惑に充ちた眼付きをして彼はあたりを見廻していたが、突然私の肱を突いて嗄れた声で囁いた。
「見たまえあれを! あの顔を!」
 何故か私は「顔」という言葉がこの時ゾッと身に沁みた。それで私は眼を躍らせ彼の指差す方向へ周章《あわ》てて視線を走らせた。
 顔! 顔! 人間の顔! しかも一つや二つではない。ほとんど幾十という人間の顔が藪地《ジャングル》の木《こ》の間《ま》から私達の方を瞬きもせずに瞶《みつ》めている。それは確かに人間の顔だ。人間の顔には相違ないが、それが人間の顔だとすると何んという奇怪な顔だろう! 普通の人間の顔から見るとほとんど二倍の大きさはある。そしてその顔の五分の三はセピア色の毛で蔽われていて、巨大な鉄槌で打たれた
前へ 次へ
全60ページ中49ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング