り》さえ、黄昏《たそがれ》時の室の中の、鼠紫の空気の中では毒々しく光ることは出来ないらしい。あちこちに置かれた玻璃《はり》の道具、錫の食器、青磁の瓶――燈火《ともしび》の点《つ》かない一刻を仮睡《うたたね》の夢でも結んでいるように皆ひそやかに静まっている。
 月はもう空に懸かってはいるがしかし太陽は没していない。昼でもなければ夜でもない。夜と昼との溶け合った真に美しい一刻である。
 薄暮時《たそがれどき》のこの一刻を、私はしばらく味わおうとして食堂の椅子へ腰かけていた。
 耳を澄ませば窓の外の芭蕉や蘇鉄の茂みから孔雀の啼き声が聞こえて来る。名残の太陽を一杯に浴びてまだまだ戸外は明るいと見える。孔雀の啼き声と競うように高い鋭い金属性の鸚鵡《おうむ》の啼き声も聞こえて来る。窓外の壁板に纒っている冬薔薇の花が零《こぼ》すのであろう、嗅ぐ人の心を誘って遠い思い出へ運んで行くような甘い物憂いまた優しい花の香が開け放された窓を通して馨って来る。その花の香に誘われて私の心は卒然と三年前に振りすてた故国の我が家へ帰って行く。……
 夕の鐘が鳴り出した。回教寺院《モスク》で鳴らす祈祷の鐘だ。冬といってもこの西班牙《スペイン》のマドリッドの暖さはどうだろう! 秋の初めと変りがない。雪は愚か雨さえもこの一ヵ月降ろうともしない。乾き切った十二月の空を通して鳴り渡る回教寺院《モスク》の鐘の音の音色の高いのは当然だ。しかし神々しい鐘の音ももう明日からは聞かれまい。明日はこの国ともおさらばだ。東洋と西洋とを一つに蒐《あつ》めて亜弗利加《アフリカ》の風土を取り入れたような、異国情調のきわめて深い世にも懐しい西班牙《スペイン》を立って明日は沙漠へ向かわねばならぬ。支那の西域|羅布《ロブ》の沙漠! そこへ私は出かけるのだ。沙漠は私を呼んでいる。その呼び声を聞く時は西班牙《スペイン》を懐かしむ心などは跡方もなく消えてしまう! 私は今日までまあどんなにその呼び声を待ちかねたろう……冬薔薇の匂いがまた匂う。三年前に立ち去った故国の我が家の面影がまたもわが眼に映って来る。私の思い出はその家へ今なつかしく帰って行く。

 支那広東裳花街。そこに私の家がある。家といっても父も母も遠い昔に死に絶えてたった一人の妹だけが老婆の召使いと二人きりで寂しく暮らしているばかりだ。父母は革命の犠牲となって袁世凱《えんせいがい》
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