高島異誌
国枝史郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)薄縁《うすべり》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)今日|邂逅《おめにかか》った

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、底本のページと行数)
(例)[#底本では「族」が脱字]
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  妖僧の一泊

「……ええと、然らば、匁という字じゃ、この文字の意義ご存知かな?」
 本条純八はやや得意気に、旧《ふる》い朋友の筒井松太郎へ、斯う改めて訊いて見た。二人は無聊のつれづれから、薄縁《うすべり》を敷いた縁側へ、お互にゴロリと転りながら、先刻から文字の穿鑿《せんさく》に興じ合っているのであった。
「匁という文字の意義でござるか? いやいや拙者不案内でござるよ」
 松太郎は指で額を叩き、苦笑しながら左様云った。
「然らばご教授申そうかの――匁と申す此文字はな、何文の目という意義でござるよ。つまり文〆《えみじめ》と書くべきを略して此様に書き申す」
「ははあ、文〆の略字かの。如何様、是は尤じゃ」
「何んと古義通ではござらぬかな」
「天晴古義通、古義通じゃ」
 仲の宜い二人は笑い合い、何んの邪気も無く褒め合った。
 先刻から門前に佇んで、鈴を鳴らしていた托鉢僧――頭髪白く銀《しろがね》のように輝き、皮膚の色も白く鞣革のように光った、老いた威厳のある托鉢僧は、其時何んと思ったか、つかつかと門の内へ這入って来たが、
「失礼ながら匁の穿鑿、ちと曖昧でござり申すよ」
 斯う云うと縁側へ腰をかけた。
「これはこれは旅の僧、匁の字に異議ござるとの?」
 純八はヒョイと起き直り、老僧の顔をまじまじと見た。
「いやいや決して異議ではござらぬ、誤りを正てあげるのじゃ」
 僧は優しく笑ったが、
「匁は文〆の略字では無うて、銭という字の俗字でござる。これは篇海にも出て居ります哩。又、説文長箋には泉という字の草書じゃと、此様に記してもござります哩。而て泉は銭に通ず、即ち、匁は銭と同じじゃ」
 傍引該博のこの説明には、純八も松太郎も一言も無く、すっかり心から感心した。
 で、純八は座敷へ請じて、茶を淹れ斎《とき》を進めたりして、懇《ねんごろ》に僧を待遇したが、
「偖、ご老僧、承わり度いは、歳の字と才の字の異弁でござるが、拙者、先日迄、才の字こそは、所謂歳の字の当字であろうと、斯う思い込んで居りましたところ、頃日、名家の墨跡を見、歳の字の件《くだり》まで参りました所、才の字が書かれてございました」
「それとて当字ではござらぬよ。即ち、才は哉の古字、而て哉は戴に通じ、尚又戴は歳の字と同意義、自然才の字は歳の字に通じ、二者は全く同一字でござる」
 そこで純八は復《また》訊いた[#「復《また》訊いた」は底本では「復|訊《また》いた」と誤記]。
「拙者は此土地の郷士でござって祖父の代までは家も栄え、地方の分限者でござりましたが、父の世に至って家道衰え、両親此世を逝って後は、愈々赤貧洗うが如く、ご覧の通り此拙者、妻帯の時節に達し居り乍ら、妻も聚[#「聚」はママ]《めと》れぬ境遇ながら、文武の道のみは容易に捨てず、学ぶ傍子供を集めて、古えの名賢の言行などを、読み聞かせ居る次第にござりますが、「童子教」という、古来よりの著書《ふみ》、覚え易く又教え易き為、子供に読ましめ居ります所、内容余りに僧家の事のみ多く、且、如何わしい説なども有って、聖賢の名著とは思われず、此儀如何にござりましょうか?」
「左様、名著ではござらぬの。取るにも足らぬ俗書でござる」
 僧は言下に弁えたが、
「とは云え此書著名と見え、早く唐土にも渡り居り経国大典巻の三に「倭学に在りては童子教庭訓往来こそ最も優れ……」と、既に申して居るとこを見ると、俗間の書としては久しい間、行われて居たものと思わるるよ」
 純八、松太郎の二人の者は愈々心に驚いて、益々僧を尊敬したが、分けても純八は学問好きの為めか僧を懐しくさえ思うようになった。
 で、松太郎の帰った後、尚何時迄も引き止めて、更に様々問答したが、永い六月の日も暮れて点燈《ひともし》頃になったので、俄に僧は立ち上がり謝辞を述べて帰えろうとした。と、困難の修行の旅が老齢の彼を弱らせてたものか、我破と縁先へ転って、口から夥しく穢物を吐いた。
「や、これはご病気と見える。まずまず座敷へお這入りなされて暫くご安臥なさりませ」
 純八は老僕に手伝わせ、急いで褥を設けると、老僧を中へ舁き入れたが、是ぞ本条純八をして、数奇の運命へ陥らしむる、最初の恐ろしい緒《いとぐち》なのであった。

  山なす財物

 純八は老僕の八蔵を、医師千斎の許へ走らせた。
 間も無く遣って来た千斎は、静かに老僧の脈を数え、暫くじっと考えていたが、
「鳥渡お耳を」
 と囁いて、隣室まで純八を誘った。
「何んと本条殿、あのご老僧は、貴殿のご縁辺ででもござるかな?」――声を窃《ひそ》めて先ず訊いた。
「いや縁者でも知己でもござらぬ。しかも今日|邂逅《おめにかか》ったばかりの、赤の他人でござりまするがな……」――純八は幽《かすか》に眉をひそめ「何か老僧のご病気に就き不審の点でもござりまするかな?」
「左様、些不審ではござるが、夫れは又夫れとして何れ千斎、研究致す事として、兎に角至急あの御僧を門外へお移しなさりませ」
「それは又何故でござるかな?」
「いやいや何故も兎角も不用、一刻も早く追い出しめされ」
「それは不仁と申すもの、理由の説明無いからには、左様な不親切は出来ませぬ」
 純八は首を振るのであった。すると千斎は気の毒そうに、
「御身の上に恐ろしい災難が振りかかっても宜しゅうござるか?」
「他人に好意を尽くすことが、何んの災難になりましょうぞ!」
「その好意もよりきり[#「よりきり」に傍点]じゃ」――千斎はいとも苦々しく「悪虫妖狐|魑魅魍魎《ちみもうりょう》に、何んの親切が感じられようぞ。寸前尺魔、危険千万、愚老は是でお暇申す。貴殿もご注意なさるがよい」
 気にかかる言葉を後に残して、医師千斎は帰って行った。
「悪虫妖狐魑魅魍魎に何んの親切が感じられようぞ? ハテ、これは何ういう意味であろう?」――純八は口の中で呟いて、多少心にもかかったが、再び病室へ取って返えし、今はスクスクに睡っている気高い老僧の顔を見ると、からり[#「からり」に傍点]と心が澄み返えり、何時かそんな言葉を忘れて了《しま》った。
 その翌日のことであったが、僧は褥から起き上がり、昨夜からの介抱の礼を述べたが、縁側へ出て草鞋を穿こうとした。
 驚いたのは純八で、周章《あわ》てて衣の袖を引き、
「是は何んとなされます? よもやご出立ではござりますまいな?」
「いやいや是でお暇でござる」僧は微妙な笑い方をし、「是非発足たねばなりませぬ。と申すのは此辺に愚僧の敵がござるからじゃ。いやいや長袖と申す者は、変に意地くね[#「くね」に傍点]の悪いものじゃ。貴殿もご用心なさるがよい。あの千斎とか申す薬師、ろく[#「ろく」に傍点]な者ではござらぬ依って……が貴殿のご親切は愚僧決して忘れは致さぬ。恐らく直ぐにも好いご運が御身に巡って参ろうと存ずる。ご免下されい。おさらばでござる」
 斯う云うとスックと立ち上がり、スタスタ往来の方へ足を運んだが又口から穢物を吐き出した。併《しか》し老僧は見返りもせず、門から外へ出て行った。と最う姿は見えないのである。
「お気の毒にもご老僧は未お体が悪いと見える」――斯う云い乍ら門の方を暫く純八は見送ったが、軈て僕《しもべ》の八蔵を呼んで其穢物を掃除させた。
 八蔵は何か口の中でぶつぶつ不平を云っていたが、主人の命令に従って鍬で其辺の土を掻いた。カチリと鍬の刄に当たるものがある。見ると手頃の銀環である。その銀環をぐい[#「ぐい」に傍点]と引くと、革袋の口が現れた。
「これは不思議」と縁から下りて、純八も八蔵へ手を貸して、共に銀環を引っ張った。二人の力を合わせても、革袋は動こうともしないのである。つまり夫《そ》れ程重いのである。
「何が這入って居るのであろう?」
 純八は好奇心に促され、引くのを止めて短刀を抜き、袋の口を切り払ったが、その瞬間に鋭い悲鳴が「が――ッ」と切口から聞えて来た。併し不思議は夫ればかりで無く、見よや巨大の袋の中には黄金ばかりが張ち切れる程に一杯に充ち満ちているではないか!
「偖こそ昨日の老僧は仏菩薩の化身であったよの! 我の貧困を憐み給い巨財をお授け下されたのであろうぞ! 南無阿弥陀仏」
 と思わず知らず、純八は念仏を申したが、果して彼の思った通り、数えもされぬ程の其財宝は仏菩薩よりの贈物であったろうか?
「いや!」
 と医師の千斎だけは、その好運を否定《うべなわ》なかった。
「それこそ妖怪の誘惑でござるよ。すべて災難の参る時は、多くは最初には夫れと反対に、好運めいたものが参るものでござる。お気の毒な、純八殿じゃ。妖魔に魅入られて居られやす哩。が夫れにしても彼の老僧抑々何物の変化であろう」

  蟇の池の怪

 斯ういうことのあったのは、元禄十五年六月のことで、諏訪因幡守三万石の城下、高島に於ける出来事である。
 偖《さて》、斯うして巨財を贈わった。本条純八は、是迄の貧しい生活を捨てて、栄誉栄華に日を送る事を、何より先に心掛けた。
 この物語の原本たる「異譚深山桜」には、其時の事を次のように、美しい文章で書いてある。
「(前略)……彼の歓喜限り無く宛《さなが》ら蚊竜時に会うて天に向かつて舞《のぼ》るが如く多年羨み望みたる所の家財調度を買求め、家の隣の空地を贖ひ、多くの工匠を召し集めて、数奇を凝らせる館を築けば、即ち屏障光を争ひ、奇樹怪石後園に類高く、好望佳類類うもの無し。婢僕多く家に充ち、衆人を従へて遊燕すれば、昔日彼の貧を嫌つて、接近を忌みたる一門親族[#底本では「族」が脱字]も後に来つて媚を呈す。云々……(下略)」
 要するに、彼は一朝にして、王侯の生活に達したのであった。で成金の常として幾人もの妾を蓄えたが、笹千代という二十歳の美婦を専《もっぱ》ら彼は寵愛した。
 斯うして彼の好運は、先拡りに益々拡り、容易に崩れそうにも見えなかった。併し老医師千斎ばかりは、あの時以来足踏みをせず、純八の噂の出る毎に、
「いやいや誠の栄華ではござらぬ。魑魅魍魎の妖術でござるよ」
 斯う苦々しそうに云い放し、彼の運命を気遣うのであった。幼馴染の筒井松太郎は、以前《むかし》に変らぬ友情を以って絶えず彼の許を訪れたが、是も時々小首を傾げ、
「ハテ、此素晴らしい好運は、一体何時まで続くのであろう?」と、不安そうに呟く事があった。
 斯うして一年は経過ったが、其時大きな喜が復も純八に訪れて来た。それは笹千代が男の子を儲けたことで、早速吉丸と名を付けて、宝の様に慈愛《いつくし》んだ。美しい女、不足無い衣食、そうして子さえ出来たので[#「ので」は底本では「の族で」と誤植]、心ゆくまでの大栄華に、彼は浸る[#底本では「侵る」]ことが出来たのである。
 彼の館の庭園に古い広い池があった。以前空地であった頃から其池は其処に在ったので、其頃から其池は人達によって、「蟇の池」と呼ばれていた。夫れは巨大な無数の蟇が其処を住家にして住んでいるからで、そう云えば本当に初夏の候になると、水草の蔭や浮藻の間に、疣々のある土色の蟇や、蒼白い腹を陽にさらして、数え切れない程の沢山の蟇が住んでいるのが、彼にも見えた。
「蟇というものは一見すると無気味じゃが、よく見ると仲々雅致がある。決して池の蟇は殺してはならぬ」
 純八は家人へ斯う云い渡して、却って蟇の保護をした。
 然るに此処に困った事には、その池の蟇を捕えようとしてか何処からとも無く無数の蛇が、庭園の中へ集まって来て、女子供を驚かせたり、縁や柱へ巻き付くので、尠《すくな》からず純八は当惑し、見付ける端から殺させたけれど、蛇は益々増るばかりであった。
 と云って蟇を殺すことは、純八は何うしても許さない。
 斯うして三年目の夏が来た。
 其時事件が起っ
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