たのである。
 それは夕立の晴れた後の、すがすがしい午後のことであったが、三歳になった吉丸は母の笹千代に連れられて、池の畔《みぎわ》を歩いていた。すると草叢から一匹の蛇が、紐のようにスルスルと走り出たが、ハッと思う暇も無く吉丸の足へ巻き付いた。
「あっ」
 と驚いた笹千代は、自分も長虫を嫌う所から、消魂く人を呼び乍ら、一間余りも飛び退ったが、どぶん[#「どぶん」に傍点]という水音に驚いて、ギョッとばかりに振り返って見ると、吉丸の姿が見当らぬ。
 池の岸まで走り返えり、じっと水面を隙かして見れば、どこよりも蒼い水の面に、一に小さい波紋があって、次第々々に大きくなり、やがて幽に消え失せたが、正しく波紋の真中には、いたいけ[#「いたいけ」に傍点]な吉丸の死骸が沈んでいるに相違ない。
 彼女の声に驚いて、純八を初め家婢下男共は、周章てて其場へ駈けつけて来たが、早速には何うする事も出来なかった。
 これぞ最初の不幸なのである。

  妖僧再び出現

 併し最初の此不幸は、意外な物の救助《たすけ》に依って、不思議にも恢復《とりかえ》す事が出来た。
 それは、其夜の事であるが、嘆き疲れた純八が、思わず睡眠《まどろ》んだ其際に、一つの夢を見たのである。
 夢の主人は蟇であった。蟇は大きさ人間ほどもあったが、前脚二本で溺れ死んだ筈の吉丸を、さも大事そうに抱いていたが、幾度も幾度も辞儀をして、偖夫れから斯う云った。
「私事は〈蟇の池〉に住む多くの蟇の主でございますが、貴郎様には此年頃、大方ならぬ保護を受け、有難く存じて居りました所、今日計らずも若様が、水に溺れようとなされましたので、ご恩報じは此時と思い、お助け申しましてござります。いざお受け取り下さいますよう……尚又もしお館様に此後ご災難などござりました際には、私の力の及ぶ限りは、必ずお力になりましょう程に、お心安く覚し召せ」
 云って了うと蟇の姿は、幻のように消えて失せ、スヤスヤと眠っている吉丸ばかりが、布団の上に置いてあった。
 二度目の災難の起こったのは、それから十日程経った時で、厨《くりや》の方から火が起こり、館を灰燼に為ようとした。其時不思議や池の水、忽ち条々と噴き上がり、焔に向かって降りかかったので、さしもの劫火[#「劫火」は底本では「却火」と誤記]も瞬間に其勢力を失って、無事に館は助かった。斯うして不安の夏も逝き、秋の初めになった時、遂々恐ろしい没落が純八の身の上に落ちて来た。
 それは後園の藤袴が空色の花を枝頭に着け、築山の裾を女郎花が、露に濡れながら飾るという如何にも秋めいた日のことであったが、純八は一人池の周囲をのんびり[#「のんびり」に傍点]した気持で歩いていた。
 と、裏門がギーと開いて、三年前に初めて逢い、彼に福徳を授けて呉れた白髪|皓膚《こうふ》[#底本では「《こうひ》」]の托鉢僧が、そこから忽然と這入って来た。
「お、これはご老僧。ようこそお出で下されました」
 と、死んだ親にでも逢ったように、大袈裟に純八は喜び乍ら、手を拡げて其方へ走り寄った。
 併し老僧は挨拶もせず、只凝然と立っている。昔の俤と変りが無いが頸の辺に太刀傷が一筋細く付いているのが、些昔と異っている。
「どうじゃな?」
 と僧はやがて云った。
「今の境遇は楽しいかな」
「はい」と純八は慇懃に、
「此上も無く結構でござります」
「成程」
 と僧は笑い乍ら「何時迄も今の境遇に坐っていたいと思うかな?」
「何時迄も居り度うござります」
「成程」
 と僧は復笑って「併し私にはそうは見えぬ、お前は何うやら厭飽《あき》たらしい」
「いえいえ、そんな事はございません」
「では何故善根を積まぬのじゃ?」
「え、善根と仰有いますと?」
「殺生などをしない事じゃ」
「決して殺生などは致しませぬ」
「お前は蛇を殺すじゃないか」
「あれは悪虫でございます故……」
「ふん」と僧は嘲笑った。「それが大変な間違いじゃ。蛇は決して悪虫では無い。……ましてお前の身の上に執っては大変為になる虫なのじゃ!」
 僧は暫く考えていたが、
「お前の好運は尽きたのじゃぞ!」
 と不意に鋭く叱※[#「口+它」(咤の俗字)、よみは「た」、第3水準1−14−88、127−上9]した。
「栄枯盛衰の移り変りの如何に劇《はげ》しく恐ろしいかという事を、汝其処に居て見るがよいわ!」
 僧がポンポンと手を拍った。
 と其刹那高楼の四方から焔々たる大火燃え上ったが、忽ち館は烏有に帰した。
「異譚深山桜」には、其時の事を次のように、哀れ深く書いてある。
「(前略)妖火静まつて後を見れば、寂寥《せきりよう》として一物無く、家屋広園悉く潰え、白骨塁々雑草離々人語鳥声聞ゆるもの無し。而て白骨は彼の家人、即ち妾婢幼児なりき。
 彼唖然として心茫々、回顧すれば老僧の姿、又|※[#「倏の俗字(犬が火)」、第4水準2−1−57、127−下1]忽《しゅっこつ》[#底本では「《しょこつ》」]として消亡す。(下略)」
 つまり恋しい笹千代も恩愛限り無い吉丸さえ、彼は失って了ったのであった。如何に彼が驚いたか、どんなに彼が悲しんだか、敢てそんな事は筆を改めて説明するにも及ぶまい。――斯うして彼は一切の栄華、総ての物を失ったのであった。

  美人と童子

 一朝にして王侯の生活、再転して乞食の境遇。昨日の繁栄は今日の没落、本条純八は暫くの間は夢|現《うつつ》の境に彷徨したが、此の著しい変転は却って彼には良薬となり、俄然精神が一変し、現世の悦楽を求むる代りに、虚無融通の神仙道に、憧憬の心を運ぶようになった。
 昔のままに残っている先祖から譲られた廃屋《あばらや》に住み、再び近所の子供を集めて、名賢の教えを説く傍山野の間を跋渉して、努めて心胆《こころ》を鍛錬した。
 喜んだのは医師千斎で、
「これこそ誠の生活というものじゃ」
 斯う云って彼は元通り繁々足を運ぶようになった。筒井松太郎は云う迄も無く無邪気な仲のよい友達として、毎日のように訪れて来る。一度魔道に入り乍ら、よく改心した賢者だというので却って人々は尊敬する。
 で、一年も経った頃には、彼も何時しか昔の事を忘れて、村風子の身の上を喜ぶようになった。
 斯うして復も一年経ち、梅の花の咲く春となった。千里鶯啼いて緑紅に映ず、水村山郭酒旗の風――郊外の散策に相応い、斯う云ったような季節になったのである。
 で彼は或日一瓢をたずさえ、湖水の岸に添い乍ら小坂の観音の方へ彷徨って行った。
 目指す境内へ着いたは、日暮に近い頃であって数百年を経たらしい梅の老木が、千孕万孕の花を着け、夕陽に皓々と照り栄えている様子は、例ようも無く美しかったが、参詣の人も花見の人も悉く絶えて影も無かった。
 純八に執っては人の居ない事が、却って好都合で有難く、飽かず其辺を逍遙しながら、静かに歌を考えたりした。
 斯うして今の時間にして二時間余りも経った時、既に充分興を尽くしたので、彼は家路に就こうとした。
 すると、忽どこからとも無く、
「純八殿、純八殿」と呼ぶ者がある。
「何人《どなた》でござる?」
 と怪しみ乍ら、純八は四辺を見廻わした。人の居るような気配も無い。で復彼は歩き出した。と復同じ声がして、
「純八殿、純八殿」と呼び掛ける。夫れはどうやら梅の古木の洞穴の中から来るようである。
 彼は不思議に思い乍ら、洞穴の方へ近寄って行った。そして其前に立ち乍ら、
「何人でござるな? 呼びなされたは?」
 斯う云って声を掛けて見た。すると、其時、見覚えのある、例の老僧が洞穴の中から、ヒョイと半身を現したが、
「愚老でござるよ。お忘れかな?」
「や、これはあの時のご僧!?[#「!?」は1マスに横並び、第3水準1−8−77、128下−20]」
「いかがでござるな、ご気嫌は?」僧はニヤリと笑い乍ら「どうやらお変りも無いようじゃの?」
「爾来、平穏無事でござる」
「それは何より結構じゃ。……どうじゃな、拙宅へ参られては?」
「ご庵室は何処にござりますな?」
「此洞穴の根方にござるよ。どうじゃな直ぐに参られては?」
「珍らしい事でもござりますかな?」
「其方の妻子にお引合せ致そう」
「え?」と純八は思わず叫び、一足僧の方へ近寄ったが、「ナニ、笹千代と吉丸とが、尚生きて居ると仰せられますか?」
「其方を待ち兼ねて居られるのじゃ」
「ご案内下されい! 妻子の許まで!」
 純八は斯う云うと身を躍らせて、洞穴の中へ飛び込んだ。
「此方じゃ、此方じゃ」
 と、老僧は、純八の前に立ち乍ら、足を早めて走り出した。其後の事は「異譚深山桜」に、次のような文章で記されてある。
「……白光仄々たる一条の路を、僧に従つて走り行けば、十町余にして一天地に出づ。天蒼々と快く晴れ、春日猗々として風暖く、河辺、山傍、又田野には、奇花芳草欝乎として開き、風景秀麗画図の如し。行く行く一座の高楼を見る。巍々たる楼門、虹の如き長廊、噴泉玉池珍禽異獣、唱歌の声は天上より起こり、合唱の音は地上より湧く、忽ち、美人と童子とありて、遙かに望見して一揖す。即ち、笹千代と吉丸のみ。云々(下略)」
「あっ」
 と純八は夫れを見ると、喜びの声を上げ乍ら、二人の居る方へ走り出した。笹千代も吉丸も夫れと見ると、是も喜んで走り寄って来たが、俄に足を止めて指さした。そして大声で斯う叫んだ。
「お逃げなさい! お逃げなさい!」と。
 純八はハッと気が付いて、背後の方を振り返った。
 見よ! 背後には僧は居ずに、皓々と輝く一匹の巨蟒《うわばみ》、数間に延びたる蛇体の一部に、可笑くも墨染の法衣を纏い、純八を目掛けて一文字に、矢のように飛び掛かって来るではないか!

  歯の無い口

「偖こそ妖怪!」
 と純八は、腰の太刀に手を掛けると、キラリとばかりに抜き放した。途端に飛びかかる蟒《うわばみ》の胴を颯と斜めに切り付ける刹那、太刀は三段にバラバラと折れた。
「南無三宝!」
 と飛び退いた折しも、
「お逃げなさい!」
 と叫ぶ声が、背後の方から聞えて来た。
「もう逃げるより仕方が無い」
 純八は一散に走り出した。元来た方へ走るのである。走り乍ら振り返えると[#底本では「振り退えると」]、シューッ、シューッと音を立て乍ら、蟒は後から追っかけて来る。「追い付かれては一大事!」と、彼は今は見返えりもせず、命限り走って行く。行手に梅の古木があり、根元に一箇の洞穴がある。洞穴へ飛び込んだ。と、その瞬間、月の光の、ほのかに地上を照らしている、小坂観音の境内が、彼の眼前へ現れた。
「あら有難や、魔界を遁がれたは!」
「恐ろしいか! 本条純八!」――嗄れた声が背後から呼ぶ。
「何を!」
 と彼は振り返った。梅の古木の洞穴から、僧が半身を現しながら、歯の無い口を大きく開けて、声を立てずに笑っている。
「己れ妖僧!」と小刀を抜き「覚えたか!」と切り付けた。
 夥しい臭気が洞穴の中から、煙のように噴き出したかと思うと、妖僧の姿は既に消えて、斯う叫ぶ声ばかりが聞えて来た――
「……俺との縁は是で切れた! 安心しやれ安心しやれ!」嗄れた笑声を響かせたが「女の切髪気を付けよ、気を付けよ!」
 その後は森然《しん》と物寂しく、何んの音も聞えない。ただ月明に梅花ばかりが白く匂っているばかりである。

「それはさぞ恐ろしゅうござったろう」医師千斎は純八の口から、以上の物語を聞かされると、身の毛も[#「も」はママ]慄立てて驚いた。そうして暫時考えていたが、
「今後は充分注意なされて、二度と再び妖怪共に魅入られぬようなさりませ。今度魅入られたら一大事、二つ無い命を取られようも知れぬ」
「いや充分に気を付けましょう」
「当分外出などはなさらぬがよい」
「仰せに従い此処一、二ヶ月[#底本では「二ケ月」]は、家に籠ることに致しましょう」
 其処へ松太郎も訪ねて来たが話を聞くと斯う云った。
「小坂の観音の梅の古木こそ、ちと怪しいではござらぬかな」
「左様、恐らく洞穴にこそ、妖怪は籠って居るのでござろう」千斎老医も頷いて云った。
「調べて見ようではござらぬかな。その梅の木の洞穴
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