の中を」松太郎は千斎に斯う云った。千斎は手を揮《ふ》り、顔色を変えたが、
「滅相も無い事仰せられるな。迂濶にそんな事為ようものなら、それこそ悪神の怒りに触れて、どのような兇変を受けようも知れぬ。お止めなされい! お止めなされい!」
すると松太郎はカラカラと笑い、
「たかが妖怪ではござらぬか。何んの兇変など受けますものか」
「いやいや夫れは広言というもの。現に此処に純八殿が災難を受けられたではござらぬか」
「拙者の言葉が広言とな?」松太郎は苦い顔をしたが、自然言葉も荒くなり、「広言か否かは試した上の事! 憚ながら此松太郎には、五分の隙もござらねば、妖怪の魅入る可き道理ござらぬ!」
すると今度は純八が、ムッとしたような顔をしたが、
「これは筒井殿お言葉じゃ、然らば拙者には魅入られるような、武道の隙間ござったのかの?」
「左様」
と、売言葉に買言葉、つい松太郎は云い切った――
「左様、隙間があったればこそ、魅入られたのでござろうがの」
「益々以って異なお言葉、親友とて聞捨てならぬ! 先ず聞かれい筒井殿、これが人間と人間との、相対太刀討又は議論に、打ち敗かされたと申すなら、いかにも武道不鍛錬の隙間と申されても為方ござらぬが、名に負う相手は妖怪でござる。しかも神変不思議の術を自在に使う恐ろしき奴! 魅入られるのは不可抗力じゃ! なんと左様ではござらぬかな?」
併し松太郎は嘲笑って益々自説を固執した。
「いやいや人間であろうとも乃至は鬼畜であろうとも相手としては、同じ事じゃ! 不可抗力などとは卑怯な云い分……」
「黙れ!」
と、突然喝破して、ムックリ純八は立ち上がり、刀の束へ手を掛けた。
仲秋三五の月
「おお、果たし合いか! 心得たり!」
時の逸《はず》みで松太郎も、刀を執らざるを得なかった。
「卑怯な云い分とは無礼至極! いざ庭へ出よ、討ち果して呉れよう!」
「そう云う頬げた[#「頬げた」に傍点]、いで此方こそ!」
二人はあわや[#「あわや」に傍点]一足飛びに座敷から庭へ飛び下りようとした。
「ま、ま、暫く、お待ちなされい!」
驚いたのは千斎で、しっか[#「しっか」に傍点]と二人の裾を握りいかな[#「いかな」に傍点]放そうとしなかった。
「驚き果てた振舞いな! 太刀持たれて何んとなされるぞ! 昨日今日の友垣では無し、幼馴染ではござらぬか! 卑怯と云われたとて恥しゅうも無いし討ち果たして呉れようと云われたとて、怒る可き筋がござろうか! まずまず笑って水に流されい! さあさあニッコリとお笑いなされい」
成程、このように云われて見れば、如何にもそれに相違無かったので、二人は無言で刀を置いた。そうして間も無く松太郎は辞し去り、事は穏便に治ったが、その時以来|蟠《わだかまり》が二人の間には出来たのであった。
斯うして春去り夏来たり、その夏も去って凉風の吹く秋の季節とはなったのである。
それは仲秋三五の月が、玲瓏たる光を地上に投げ薄尾花の花の蔭で、降るように虫の鳴きしきる、一年に一度の良夜であったが、長い間の物忌から、すっかり欝気した純八は、その籠もった気を晴らそうものと、一人ブラリと家を出て、山手の方へ歩いて行った。
小さい峠を一つ越して、杉林の中へ這入って見た。
と、一つの辻堂がある。
辻堂の縁へ腰を掛け、彼は無心で月を見乍ら、低声で小唄を唄っていた。人気が無いので四辺は静かで枯葉の落ちる些かの音さえ、はっきり[#底本では「はっかり」]耳に聞えて来る。
すると、其時、スタスタと、立木の間を潜りながら近付いて来る人影がある。見れば美しい手弱女《たおやめ》で、髪豊に頸足白く、嬋娟《せんけん》たる姿、※[#「臈のくさかんむりが月にもかかった形(臘と同字)」、読みは「ろう」、第3水準1−91−26、133−上15]たける容貌、分けても大きく清らかの眼は、無限の愁いを含んでいて見る人の心を悩殺する。年は凡そ十九ぐらい、高価の衣裳を着ている様子は、良家の令嬢と思われた。
純八の居るのに気が付かぬかして、辻堂の前まで歩いて来ると、うずくまり乍ら合掌し、熱心に何事かを祈っていたが、その声はどうやら泣いているらしい。
やがて彼女は立ち上がった。が復直ぐに地面に坐り、また其処で暫く歔欷《きょき》したが、遂に懐中から懐剣を取り出し、あわや[#「あわや」に傍点]喉へ突き立てようとした。
始終を見ていた純八は、此時思わず身を乗り出し懐剣持つ手をつと抑[#「つと抑」に傍点、傍点位置はママ]えたが、
「この短刀まずまずお放しなされい! 見れば浦若い娘の身で、このような所へ来るさえあるに、自害なさろうとは心得ぬ。死ぬ程の苦痛ござるなら、一応拙者にお話しなされい。及ばず乍らお力にもなり、ご相談にも乗り申そう」――無理に懐剣を奪い取り、尚優しくいたわった。彼の誠心に感じたものか、娘は軈て乱れをつくろい[#「つくろい」に傍点]、顔に涙を掛けながら、自分の身の上を話し出したが、夫れは人の家に有勝の継母と継子の争いであった。
「家を出た事は出ましたけれど、手頼って行く所も無く、と云うて家へ帰るも厭、それを若し無理に帰りましたならば、継母様は屹度|妾《わたし》を責殺しなさるに違い無い。それより、一層自分から死んでほんとの母様のおいでになる幽冥《あのよ》へ参って暮らそうものと、それで覚悟を極ました所……」――「成程」と純八は仔細を聞くと、弱い一本気の娘心を、憐れまざるを得なかった。「成程、死のうと思われるのも、決して無理とは思われぬが、併し死んでは実も花も無い。それより何時迄も生き永らえて、立派な身分に成り上がり、継母殿の憎い鼻柱をヘシ折る思案をなさるがよい。……手頼るべき縁者ござらぬなら、兎に角拙宅へおいでなされい。どうじゃな。参る気はござらぬかな?」
「はい有難う存じます」――「それでは愈々参られるか?」――「はい、ご迷惑でございませぬなら……」――「他人の難儀を助けるが男子、何んの迷惑致しますものか。――では斯うおいでなさるがよい」
月の光から抜け出たような、美しい乙女をたずさえて、純八は何となく心嬉しく、林を抜けて家へ帰ったが、これぞ再び妖怪に憑かれて、身命を失う糸口であった。
奇怪の光景
若い男と若い女が、同じ家に起居し、同じ食物を食べ合っていては、その結果も大方は知れている。深山と名を呼ぶ其乙女と、本条純八とは一月経たぬ中に、切っても切れない由縁《えにし》の糸を、結び合わした身の上となった。
で、純八は其時以来復も幸福の人間になり、生き甲斐ある身の上となったのであるが、今度も老医千斎ばかりは、彼の幸福を喜ばず、深山《みやま》という女を怪んだ。そうして或時こんな事を云った。「人間は勿論|総《あらゆ》る生物には、その[#「その」に傍点]生物としての脈がござる。以前奇怪な托鉢僧を人間ならずと見極めたのも、人間ならぬ不思議な脈を其奴が持っていたからでござる。果して其奴は人間では無うて恐ろしい白蛇でござったわ。――ところで総の生物には、又その各自の生物に応じた一種の呼吸法《いきづかい》が有る物でござる。そこで今度の深山という女じゃが、誠に審《いぶかし》い呼吸法を再々致して見せるでの。どうやらお気の毒にも本条殿は復も妖怪に憑かれたらしい」
で、千斎は其時以来ピタリと足踏みをしなくなった。
それに反し、幼馴染の、筒井松太郎は以前よりも、一層繁く出入りをしたが、併し夫れには或る何等かの邪《よこしま》の目算《もくろみ》が胸にあって、その目算を果そう為、接近いているのではあるまいかと、疑われるような節があった。とは云え夫れが何であるかは勿論誰にも解らなかった。併し兎に角松太郎があの[#「あの」に傍点]議論以来純八に対して怨みを抱いているということは、疑いの無い事実である。
斯うして半年が過ぎ去った。果然その時案じていたような惨しい悲劇が湧き起こった。そうして夫れは松太郎に依って、計画されたものであった。で、作者はもう一度「深山桜」を引例して、その恐ろしい最後の悲劇を読者のお耳に入れようと思う。
「……旧友筒井松太郎は、議論の怨みを晴さんものと、窃に機会を窺い[#底本では「窮い」]居たるが、深山と純八との仲宜きを見て、己その仲を裂き呉れんと、或ひは口を以て深山を説き、又は艶書を送りなどして、彼女の心を乱さんとせり、然るに純八遇然の事より早くも松太郎の奸策を知り、勃然として怒りを発し、久しく交わること兄弟の如きに、己が恋人を横取りせんとは不義とや云はん無道人とや云はん、このままには捨て置かれじと、或日彼の来たるを待ちて、互に刀を抜き合はせ、止める者なければ充分に戦ひ、遂に松太郎を切り斃し、留を刺し血を拭ひ、最早此地には居られずと、深山を連れて落ち延びける。此処に筒井松蔵といふは、松太郎の実の弟なりしが、兄の仇を討たんずものと、主君因幡守に暇を乞ひ、ただ一人にて出立せしが、巡り巡つて三年越し、更科の郡|姨捨《うばすて》山の、月見堂の傍まで来かかる折柄、人住めるとも思はれぬ荒れ廃たれたる茅屋ありて、人の呻く声の聞ゆるに、こは怪しと覗き見れば二人の男女籠もり居たり。男は意外にも純八なりしが、顔色蒼褪め死せるが如く、髪髭自在に生い茂り、身体痩せて枯木に似、而も昏々と眠れるなり。女の方は深山なりしが、純八を犇と抱き抱へ、長き舌を口より吐き、男の頭をヒラヒラと舐る。奇怪の光景に驚き乍らも、素破敵を見付けたわと、戸を蹴破つて押し入りつ松蔵は大音に呼ばはるやう「今は天命遁れ難し、いで立ち上がつて勝負せよ!」と、声に驚き逃げ出す女を「汝も敵の片割ぞ!」と、一刀サツと切り付けるに、女はキーツと悲鳴を上げ、壁を伝つて天井裏へ、鼠のやうに隠れたり。この物音に眼を醒ましたる本条純八は只茫然と、松蔵の顔を眺めるのみ。精神脱楽人事を弁ぜず、まして言葉を出す由も無し、今は是迄と松蔵は、純八の頭を打ち落し、尚女めを仕止めんものと、落ち散る丸木をおつ取つて、ハツと天井を突き上ぐれば、板目破れて其隙間より、五尺あまりの真黒の物ドツと落ちたるを好く見れば、四つの手脚人間に似たる、守宮なり[#底本では「宮守なり」]、松蔵も流石に驚き、思はず呼吸を呑みたるも、やがて刀を持ち直し、グサと背骨を突き通し、弱る所を足で踏まへ、直ちに首を落したり。云々。(下略)」
底本:「妖異全集」桃源社
1975(昭和50)年9月25日発行
入力:地田尚
校正:小林繁雄
2002年2月18日公開
青空文庫作成ファイル:
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