、尚優しくいたわった。彼の誠心に感じたものか、娘は軈て乱れをつくろい[#「つくろい」に傍点]、顔に涙を掛けながら、自分の身の上を話し出したが、夫れは人の家に有勝の継母と継子の争いであった。
「家を出た事は出ましたけれど、手頼って行く所も無く、と云うて家へ帰るも厭、それを若し無理に帰りましたならば、継母様は屹度|妾《わたし》を責殺しなさるに違い無い。それより、一層自分から死んでほんとの母様のおいでになる幽冥《あのよ》へ参って暮らそうものと、それで覚悟を極ました所……」――「成程」と純八は仔細を聞くと、弱い一本気の娘心を、憐れまざるを得なかった。「成程、死のうと思われるのも、決して無理とは思われぬが、併し死んでは実も花も無い。それより何時迄も生き永らえて、立派な身分に成り上がり、継母殿の憎い鼻柱をヘシ折る思案をなさるがよい。……手頼るべき縁者ござらぬなら、兎に角拙宅へおいでなされい。どうじゃな。参る気はござらぬかな?」
「はい有難う存じます」――「それでは愈々参られるか?」――「はい、ご迷惑でございませぬなら……」――「他人の難儀を助けるが男子、何んの迷惑致しますものか。――では斯うおいでなさるがよい」
 月の光から抜け出たような、美しい乙女をたずさえて、純八は何となく心嬉しく、林を抜けて家へ帰ったが、これぞ再び妖怪に憑かれて、身命を失う糸口であった。

  奇怪の光景

 若い男と若い女が、同じ家に起居し、同じ食物を食べ合っていては、その結果も大方は知れている。深山と名を呼ぶ其乙女と、本条純八とは一月経たぬ中に、切っても切れない由縁《えにし》の糸を、結び合わした身の上となった。
 で、純八は其時以来復も幸福の人間になり、生き甲斐ある身の上となったのであるが、今度も老医千斎ばかりは、彼の幸福を喜ばず、深山《みやま》という女を怪んだ。そうして或時こんな事を云った。「人間は勿論|総《あらゆ》る生物には、その[#「その」に傍点]生物としての脈がござる。以前奇怪な托鉢僧を人間ならずと見極めたのも、人間ならぬ不思議な脈を其奴が持っていたからでござる。果して其奴は人間では無うて恐ろしい白蛇でござったわ。――ところで総の生物には、又その各自の生物に応じた一種の呼吸法《いきづかい》が有る物でござる。そこで今度の深山という女じゃが、誠に審《いぶかし》い呼吸法を再々致して見せるでの。どうやらお気の毒にも本条殿は復も妖怪に憑かれたらしい」
 で、千斎は其時以来ピタリと足踏みをしなくなった。
 それに反し、幼馴染の、筒井松太郎は以前よりも、一層繁く出入りをしたが、併し夫れには或る何等かの邪《よこしま》の目算《もくろみ》が胸にあって、その目算を果そう為、接近いているのではあるまいかと、疑われるような節があった。とは云え夫れが何であるかは勿論誰にも解らなかった。併し兎に角松太郎があの[#「あの」に傍点]議論以来純八に対して怨みを抱いているということは、疑いの無い事実である。
 斯うして半年が過ぎ去った。果然その時案じていたような惨しい悲劇が湧き起こった。そうして夫れは松太郎に依って、計画されたものであった。で、作者はもう一度「深山桜」を引例して、その恐ろしい最後の悲劇を読者のお耳に入れようと思う。
「……旧友筒井松太郎は、議論の怨みを晴さんものと、窃に機会を窺い[#底本では「窮い」]居たるが、深山と純八との仲宜きを見て、己その仲を裂き呉れんと、或ひは口を以て深山を説き、又は艶書を送りなどして、彼女の心を乱さんとせり、然るに純八遇然の事より早くも松太郎の奸策を知り、勃然として怒りを発し、久しく交わること兄弟の如きに、己が恋人を横取りせんとは不義とや云はん無道人とや云はん、このままには捨て置かれじと、或日彼の来たるを待ちて、互に刀を抜き合はせ、止める者なければ充分に戦ひ、遂に松太郎を切り斃し、留を刺し血を拭ひ、最早此地には居られずと、深山を連れて落ち延びける。此処に筒井松蔵といふは、松太郎の実の弟なりしが、兄の仇を討たんずものと、主君因幡守に暇を乞ひ、ただ一人にて出立せしが、巡り巡つて三年越し、更科の郡|姨捨《うばすて》山の、月見堂の傍まで来かかる折柄、人住めるとも思はれぬ荒れ廃たれたる茅屋ありて、人の呻く声の聞ゆるに、こは怪しと覗き見れば二人の男女籠もり居たり。男は意外にも純八なりしが、顔色蒼褪め死せるが如く、髪髭自在に生い茂り、身体痩せて枯木に似、而も昏々と眠れるなり。女の方は深山なりしが、純八を犇と抱き抱へ、長き舌を口より吐き、男の頭をヒラヒラと舐る。奇怪の光景に驚き乍らも、素破敵を見付けたわと、戸を蹴破つて押し入りつ松蔵は大音に呼ばはるやう「今は天命遁れ難し、いで立ち上がつて勝負せよ!」と、声に驚き逃げ出す女を「汝も敵の片割ぞ!」と、一刀サツと切り付ける
前へ 次へ
全8ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング