と呼び掛ける。夫れはどうやら梅の古木の洞穴の中から来るようである。
彼は不思議に思い乍ら、洞穴の方へ近寄って行った。そして其前に立ち乍ら、
「何人でござるな? 呼びなされたは?」
斯う云って声を掛けて見た。すると、其時、見覚えのある、例の老僧が洞穴の中から、ヒョイと半身を現したが、
「愚老でござるよ。お忘れかな?」
「や、これはあの時のご僧!?[#「!?」は1マスに横並び、第3水準1−8−77、128下−20]」
「いかがでござるな、ご気嫌は?」僧はニヤリと笑い乍ら「どうやらお変りも無いようじゃの?」
「爾来、平穏無事でござる」
「それは何より結構じゃ。……どうじゃな、拙宅へ参られては?」
「ご庵室は何処にござりますな?」
「此洞穴の根方にござるよ。どうじゃな直ぐに参られては?」
「珍らしい事でもござりますかな?」
「其方の妻子にお引合せ致そう」
「え?」と純八は思わず叫び、一足僧の方へ近寄ったが、「ナニ、笹千代と吉丸とが、尚生きて居ると仰せられますか?」
「其方を待ち兼ねて居られるのじゃ」
「ご案内下されい! 妻子の許まで!」
純八は斯う云うと身を躍らせて、洞穴の中へ飛び込んだ。
「此方じゃ、此方じゃ」
と、老僧は、純八の前に立ち乍ら、足を早めて走り出した。其後の事は「異譚深山桜」に、次のような文章で記されてある。
「……白光仄々たる一条の路を、僧に従つて走り行けば、十町余にして一天地に出づ。天蒼々と快く晴れ、春日猗々として風暖く、河辺、山傍、又田野には、奇花芳草欝乎として開き、風景秀麗画図の如し。行く行く一座の高楼を見る。巍々たる楼門、虹の如き長廊、噴泉玉池珍禽異獣、唱歌の声は天上より起こり、合唱の音は地上より湧く、忽ち、美人と童子とありて、遙かに望見して一揖す。即ち、笹千代と吉丸のみ。云々(下略)」
「あっ」
と純八は夫れを見ると、喜びの声を上げ乍ら、二人の居る方へ走り出した。笹千代も吉丸も夫れと見ると、是も喜んで走り寄って来たが、俄に足を止めて指さした。そして大声で斯う叫んだ。
「お逃げなさい! お逃げなさい!」と。
純八はハッと気が付いて、背後の方を振り返った。
見よ! 背後には僧は居ずに、皓々と輝く一匹の巨蟒《うわばみ》、数間に延びたる蛇体の一部に、可笑くも墨染の法衣を纏い、純八を目掛けて一文字に、矢のように飛び掛かって来るではないか!
歯の無い口
「偖こそ妖怪!」
と純八は、腰の太刀に手を掛けると、キラリとばかりに抜き放した。途端に飛びかかる蟒《うわばみ》の胴を颯と斜めに切り付ける刹那、太刀は三段にバラバラと折れた。
「南無三宝!」
と飛び退いた折しも、
「お逃げなさい!」
と叫ぶ声が、背後の方から聞えて来た。
「もう逃げるより仕方が無い」
純八は一散に走り出した。元来た方へ走るのである。走り乍ら振り返えると[#底本では「振り退えると」]、シューッ、シューッと音を立て乍ら、蟒は後から追っかけて来る。「追い付かれては一大事!」と、彼は今は見返えりもせず、命限り走って行く。行手に梅の古木があり、根元に一箇の洞穴がある。洞穴へ飛び込んだ。と、その瞬間、月の光の、ほのかに地上を照らしている、小坂観音の境内が、彼の眼前へ現れた。
「あら有難や、魔界を遁がれたは!」
「恐ろしいか! 本条純八!」――嗄れた声が背後から呼ぶ。
「何を!」
と彼は振り返った。梅の古木の洞穴から、僧が半身を現しながら、歯の無い口を大きく開けて、声を立てずに笑っている。
「己れ妖僧!」と小刀を抜き「覚えたか!」と切り付けた。
夥しい臭気が洞穴の中から、煙のように噴き出したかと思うと、妖僧の姿は既に消えて、斯う叫ぶ声ばかりが聞えて来た――
「……俺との縁は是で切れた! 安心しやれ安心しやれ!」嗄れた笑声を響かせたが「女の切髪気を付けよ、気を付けよ!」
その後は森然《しん》と物寂しく、何んの音も聞えない。ただ月明に梅花ばかりが白く匂っているばかりである。
「それはさぞ恐ろしゅうござったろう」医師千斎は純八の口から、以上の物語を聞かされると、身の毛も[#「も」はママ]慄立てて驚いた。そうして暫時考えていたが、
「今後は充分注意なされて、二度と再び妖怪共に魅入られぬようなさりませ。今度魅入られたら一大事、二つ無い命を取られようも知れぬ」
「いや充分に気を付けましょう」
「当分外出などはなさらぬがよい」
「仰せに従い此処一、二ヶ月[#底本では「二ケ月」]は、家に籠ることに致しましょう」
其処へ松太郎も訪ねて来たが話を聞くと斯う云った。
「小坂の観音の梅の古木こそ、ちと怪しいではござらぬかな」
「左様、恐らく洞穴にこそ、妖怪は籠って居るのでござろう」千斎老医も頷いて云った。
「調べて見ようではござらぬかな。その梅の木の洞穴
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