めになった時、遂々恐ろしい没落が純八の身の上に落ちて来た。
 それは後園の藤袴が空色の花を枝頭に着け、築山の裾を女郎花が、露に濡れながら飾るという如何にも秋めいた日のことであったが、純八は一人池の周囲をのんびり[#「のんびり」に傍点]した気持で歩いていた。
 と、裏門がギーと開いて、三年前に初めて逢い、彼に福徳を授けて呉れた白髪|皓膚《こうふ》[#底本では「《こうひ》」]の托鉢僧が、そこから忽然と這入って来た。
「お、これはご老僧。ようこそお出で下されました」
 と、死んだ親にでも逢ったように、大袈裟に純八は喜び乍ら、手を拡げて其方へ走り寄った。
 併し老僧は挨拶もせず、只凝然と立っている。昔の俤と変りが無いが頸の辺に太刀傷が一筋細く付いているのが、些昔と異っている。
「どうじゃな?」
 と僧はやがて云った。
「今の境遇は楽しいかな」
「はい」と純八は慇懃に、
「此上も無く結構でござります」
「成程」
 と僧は笑い乍ら「何時迄も今の境遇に坐っていたいと思うかな?」
「何時迄も居り度うござります」
「成程」
 と僧は復笑って「併し私にはそうは見えぬ、お前は何うやら厭飽《あき》たらしい」
「いえいえ、そんな事はございません」
「では何故善根を積まぬのじゃ?」
「え、善根と仰有いますと?」
「殺生などをしない事じゃ」
「決して殺生などは致しませぬ」
「お前は蛇を殺すじゃないか」
「あれは悪虫でございます故……」
「ふん」と僧は嘲笑った。「それが大変な間違いじゃ。蛇は決して悪虫では無い。……ましてお前の身の上に執っては大変為になる虫なのじゃ!」
 僧は暫く考えていたが、
「お前の好運は尽きたのじゃぞ!」
 と不意に鋭く叱※[#「口+它」(咤の俗字)、よみは「た」、第3水準1−14−88、127−上9]した。
「栄枯盛衰の移り変りの如何に劇《はげ》しく恐ろしいかという事を、汝其処に居て見るがよいわ!」
 僧がポンポンと手を拍った。
 と其刹那高楼の四方から焔々たる大火燃え上ったが、忽ち館は烏有に帰した。
「異譚深山桜」には、其時の事を次のように、哀れ深く書いてある。
「(前略)妖火静まつて後を見れば、寂寥《せきりよう》として一物無く、家屋広園悉く潰え、白骨塁々雑草離々人語鳥声聞ゆるもの無し。而て白骨は彼の家人、即ち妾婢幼児なりき。
 彼唖然として心茫々、回顧すれば老僧の姿、又|※[#「倏の俗字(犬が火)」、第4水準2−1−57、127−下1]忽《しゅっこつ》[#底本では「《しょこつ》」]として消亡す。(下略)」
 つまり恋しい笹千代も恩愛限り無い吉丸さえ、彼は失って了ったのであった。如何に彼が驚いたか、どんなに彼が悲しんだか、敢てそんな事は筆を改めて説明するにも及ぶまい。――斯うして彼は一切の栄華、総ての物を失ったのであった。

  美人と童子

 一朝にして王侯の生活、再転して乞食の境遇。昨日の繁栄は今日の没落、本条純八は暫くの間は夢|現《うつつ》の境に彷徨したが、此の著しい変転は却って彼には良薬となり、俄然精神が一変し、現世の悦楽を求むる代りに、虚無融通の神仙道に、憧憬の心を運ぶようになった。
 昔のままに残っている先祖から譲られた廃屋《あばらや》に住み、再び近所の子供を集めて、名賢の教えを説く傍山野の間を跋渉して、努めて心胆《こころ》を鍛錬した。
 喜んだのは医師千斎で、
「これこそ誠の生活というものじゃ」
 斯う云って彼は元通り繁々足を運ぶようになった。筒井松太郎は云う迄も無く無邪気な仲のよい友達として、毎日のように訪れて来る。一度魔道に入り乍ら、よく改心した賢者だというので却って人々は尊敬する。
 で、一年も経った頃には、彼も何時しか昔の事を忘れて、村風子の身の上を喜ぶようになった。
 斯うして復も一年経ち、梅の花の咲く春となった。千里鶯啼いて緑紅に映ず、水村山郭酒旗の風――郊外の散策に相応い、斯う云ったような季節になったのである。
 で彼は或日一瓢をたずさえ、湖水の岸に添い乍ら小坂の観音の方へ彷徨って行った。
 目指す境内へ着いたは、日暮に近い頃であって数百年を経たらしい梅の老木が、千孕万孕の花を着け、夕陽に皓々と照り栄えている様子は、例ようも無く美しかったが、参詣の人も花見の人も悉く絶えて影も無かった。
 純八に執っては人の居ない事が、却って好都合で有難く、飽かず其辺を逍遙しながら、静かに歌を考えたりした。
 斯うして今の時間にして二時間余りも経った時、既に充分興を尽くしたので、彼は家路に就こうとした。
 すると、忽どこからとも無く、
「純八殿、純八殿」と呼ぶ者がある。
「何人《どなた》でござる?」
 と怪しみ乍ら、純八は四辺を見廻わした。人の居るような気配も無い。で復彼は歩き出した。と復同じ声がして、
「純八殿、純八殿」
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