、伊賀三郎、黄楊《つげ》四郎の三人は、甲賀流忍術の達人であった。
 敷島松兵衛、運運八、この二人は八擒流であった。
 小笠原民部は民部流開祖で、十人衆の頭であった。
 連《むらじ》武彦、霧小文吾、これは霧派の忍術家であった。
 由来忍術というものは、武芸十八般のその中には、這入ることの出来ないものであった。外道を以って目されていた。何時の時代に始まったものか、それもハッキリとは解っていない。日本神代史を調べて見ると、神々はすべて忍術家であって、国土を産んだり火焔を産んだり、海を干したり山を移したり、死の国へ平気で行ったりしている。
 忍術が所謂る「術」として、日本の芸界へ現われたのは、藤原時代だということである。
 戦国時代に至っては、尤も軍陣に用いられた。特に信玄が重用した、「蜈蚣衆」と称された物見武士は、大方優秀なる忍術家であった。
 信長は夫れほど重用せず、秀吉も重用しなかった、家康に至って稍用いたが、併し次第に衰微した。
 化学、物理、変装術、早走り、度胸、小太刀使い、機械体操式軽身術、機智の七種を学ぶことによって、大体その道に達することが出来た。
 彼等の日常の携帯品といえば
前へ 次へ
全24ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング