そち》の名は?」
「無徳道人石川五右衛門。京師の浪人にございます」
「おおそうか、見覚え置く」
で、秀吉は帰館した。
×
伏見城内奥御殿。――
秀吉は飽気に取られていた。
淀君は今にも泣き出しそうであった。
小供の秀頼は這い廻わっていた。
侍女達はウロウロまごついていた。
一体何事が起こったのであろう?
大閤殿下の衣裳の襟が小柄で縫われていたのであった。
驚き恐れるのは当然であった。衣裳の襟を縫ったのである。胸を刺そうと思ったら、胸を刺すことさえ出来たろう。或は胸を刺そうとして、故意《わざ》と襟を縫ったのかも知れない。
「謀反人がいる! 謀反人がいる!」
表も裏も騒ぎ出した。
けっきょく石川五右衛門という、京師の浪人に疑がかかった。
「それ召捕れ」ということになった。
秀吉の威光で探がすことであった。苦もなく五右衛門は召捕られた。
とりあえず長束正家が、取調役を命ぜられた。
「衣裳の襟を縫いましたは、いかにも私でございます。あまり縫いよく見えましたので。……別に他意とてはございません」
これが五右衛門の申状であった。
「あまり縫いよく見えたというか? ふん」
と秀吉は小首をかしげた。
「その者直々俺が調べる」
秀吉は正家にこう云った。
そこで五右衛門は破格を以て秀吉の御前へ引き出された。
「俺の体に隙があったと、こうお前は云うのだな?」
「御意の通りにございます」五右衛門は少しも臆せなかった。
「で、どんな時、隙があった?」
「ご退座という其の瞬間、お体が斜になられました時」
「うむ、その時隙が見えたか?」
「はい、左様でございます」
秀吉は鳥渡考えた。
「よく申した、味のある言葉だ。斜? 斜? 側面だな?……いや全く世の中には側面ばかり狙う奴がある。とりわけ徳川内府などはな。……どうだ五右衛門、俺に仕えぬか」
「これは何うも恐れ入ったことで」
「得手は何んだ? お前の得手は?」
「はい、些少《いささか》、伊賀流の忍術《しのび》を……」
「ほほう忍術か、これは面白い。細作として使ってやろう。……これ、此の者に屋敷を取らせろ」
こんな塩梅に五右衛門は、ズルズルと秀吉の家来になった。
×
「居るかえ」
と云い乍ら這入って来たのは、お伽衆の曽呂利新左衛門であった。
「やあ新左、まず這入れ」
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