、伊賀三郎、黄楊《つげ》四郎の三人は、甲賀流忍術の達人であった。
敷島松兵衛、運運八、この二人は八擒流であった。
小笠原民部は民部流開祖で、十人衆の頭であった。
連《むらじ》武彦、霧小文吾、これは霧派の忍術家であった。
由来忍術というものは、武芸十八般のその中には、這入ることの出来ないものであった。外道を以って目されていた。何時の時代に始まったものか、それもハッキリとは解っていない。日本神代史を調べて見ると、神々はすべて忍術家であって、国土を産んだり火焔を産んだり、海を干したり山を移したり、死の国へ平気で行ったりしている。
忍術が所謂る「術」として、日本の芸界へ現われたのは、藤原時代だということである。
戦国時代に至っては、尤も軍陣に用いられた。特に信玄が重用した、「蜈蚣衆」と称された物見武士は、大方優秀なる忍術家であった。
信長は夫れほど重用せず、秀吉も重用しなかった、家康に至って稍用いたが、併し次第に衰微した。
化学、物理、変装術、早走り、度胸、小太刀使い、機械体操式軽身術、機智の七種を学ぶことによって、大体その道に達することが出来た。
彼等の日常の携帯品といえば、鍔無柄巻の小刀一本(一尺足らずのものである。)金属製の小|喞筒《ぽんぷ》(これで硫酸や硝酸を、敵の面部へ注ぎかけた。)精巧無比の発火用具(燧石の類である。)折畳式の鉄梯子、捕繩、龕燈、各種の楽器(これで或る時は虫の音を聞かせ、又或る時には鳥の音をきかせ、その他川の音風の音、蛙の音などを聞かせたものである。)そうして些少《いささか》の催眠剤など。……
そうして詳細の地図を持ち、目欲しい城の繩張絵図、こういうものを持っていた。
「平法術」も必要であった。(即ち平日喧嘩の場合に、特に用いる術として、伊藤伴右衛門高豊が、編み出した所の武術である。)
立合抜打と称された「抜刀術」も必要であった。
「小具足腰の廻わり」も必要であり「捕手」「柔術《やわら》」も大切であった。「強法術」は更に大事、「手裏剣」の術も要ありとされた。
「八方分身須臾転化」これが忍術家の標語であった。「居附」ということを酷く嫌った。
「欲在前忽然而在後」これでなければならなかった。
「澄む月は一つなれども更科や田毎の月は見る人のまま」
こうでなければならないのであった。
六
或る夜秀吉はお伽衆を集め、
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