た、猪之松の乾兒の八五郎であった。
「いい所で逢った、さあ頼む。……事情は後でゆっくり話す。……今は頼む、加勢頼む。……玉を……女だ……女を一人……担いで行くんだ、一緒に来てくれ」
 息せき[#「せき」に傍点]喋舌《しゃべ》る八五郎の言葉に、猟り立てられた四人の博労は、
「ようがす、やりやしょう、合点だ! ……誘拐《かどわかし》と来ちゃアこっちの領分、まして高萩のお身内衆のお頼み恐れるところはありゃアしねえ。それ行け、ワ――ッ」と走り出した。
 来て見れば先刻の侍は居らずに、藤作一人が途方に暮れたように、気絶している女の周囲を、独楽のようにグルグル廻っていた。
 そこへ押し寄せた五人の同勢、
「この女だ、それ担げ!」
 ムラムラと寄ったのに驚いた藤作、
「こいつらア……馬方め……八五郎もか! ……また来やがったか、汝《おのれ》懲りずに」
 喚いて脇差を引っこ抜き、振り舞わしたが多勢に無勢、すぐに脇差は叩き落とされ、それに博労の喧嘩上手、土を掬うとぶっ[#「ぶっ」に傍点]掛けた。
 口に入り眼に入った。
「ワ――ッ、畜生! 眼潰しとは卑怯な」
 倒れて這い廻る藤作を蹴り退け、澄江を担いで五人の者は、耕地を横切り、丘、森、林、畦や小川を飛び越え躍り越え、どことも知れず走り去った。

 大薮の陰に刀を構え、睨み合っている陣十郎と主水、二人の構えには変わりはなかった。
 上段に振り冠った陣十郎は、その刀を揺すぶり揺すぶり、命の遣り取りのこの際にも、大胆不敵悠々寛々一面相手の心を乱し、あせらせ[#「あせらせ」に傍点]焦心《じら》せ怒らせようと、憎々しく毒々しく喋舌りつづけた。
「さあさあ主水切り込んで来い。籠手を打て、右籠手を! と拙者は引っ外し、大きく右足を踏み出して、貴様の肩を叩き割る。……それとも諸手に力を集め、胸元へ突を入れて来てもいい。と拙者はあやなし[#「あやなし」に傍点]て反わし、あべこべに貴様の咽喉を刺す……が、貴様も多少はできる腕、思うにその時右足を引き、拙者の切先を右に抑え、更に左足を引くと共に、又切先を右に抑えよう。アッハハハ、畳水練、道場ばかりで試合をし、真に人間を殺したことのない、貴様如き惰弱の武士の、やり口といえば先ずそうだ。……そこで拙者はどうするか? ナーニそのつど逆を取り、左足を進め右足を進め、位詰めにしてグングン進み、貴様を追い詰め追い詰める。……追い詰めたあげくどうするか? さあそのあげくどうするか?」
 云い云い陣十郎は言葉通り、左足を進め左足を進め、一歩一歩ジリリ、ジリリと、主水を薮の方へ追い詰めて行った。
 主水は次第に後へ下った。
 飛び込もうとしても飛び込めず、切りかかろうとしても切りかかれない。
 業の相違、伎倆《うで》の差違、段違いの悲しさは、どうすることも出来ないのであった。


 追い詰められながらも妹のことを、主水は暇なく思っていた。
 多勢に一人、しかも女、どうしただろうどうしただろう? ……叫声がする! 悲鳴が聞こえる! ……殺されたのではあるまいか? ……背後《うしろ》は大薮、それに遮られて、俺の姿は見えないはずだ。案じていよう悶えていよう。……
 上段に冠っていた陣十郎の刀が、忽然中段に直ったのは、主水が全く薮の裾に追い詰められた時であった。
「さあ追い詰めた! さてこれから……」
 陣十郎はまた喋舌り出した。
「退くことはなるまい、切り込んで来い、親の敵のこの拙者だ、さあ討ち取れ、切り込んで来い!」
 主水の咽喉へ切先を差しつけ、左の拳を丹田より上、三寸の辺りにぴたりとつけ、しかも腹部より二握りを距て、刀を構えて静まり返り、今度こそ切るぞ! からかう[#「からかう」に傍点]のは止めだ! こう決心をしたらしく、肺腑を抉るような鋭い眼で、主水の眼を睨み詰めた。
 切先と眼とに圧せられ、主水はさながら蛇に魅入られた蛙、それかのように居縮んでしまった。同じく中段に構えていたが、刀身が次第に顫えを帯び、下へ下へと下ろうとする。ハッハッと呼吸が忙《せわ》しくなり、睨んでいる眼が霞もうとする。流るるは汗! 上るは血液!
 と、フーッと主水の精神が、体から外へ脱けるように思われ、心がにわかに恍惚《うっとり》となった。気負けの極に起こるところの、気死の手前の状態であった。
 が、その時陣十郎の刀が、さながら水の引くがように、スーッと静かに冷たく、左の方へ斜に引かれた。
 あぶない! 悪剣だ! 「逆ノ車」だ! 剣豪秋山要介さえ[#「さえ」は底本では「さへ」]、破りかねると嘆息した、陣十郎独得の「逆ノ車」だ! その序の業だ! あぶないあぶない! 釣り出されて踏み込んで行ったが最後刀が車に返って来る! が、それも序の釣手だ! その次に行なわれる大下手切り! こいつだけは受けられない、ダーッとドップリ胴へ入るだろう! と、完全の胴輪切り!
 その序の業が行なわれた。
 釣られた釣られた主水は釣られた! あッ、踏み出して切り込んだ。
 一閃!
 返った!
 陣十郎の刀が、軽く宙で車に返った!
 ハ――ッと主水! きわどく反わせたが……
 駄目だ!
 見よ!
 次の瞬間!
 さながら怒濤の寄せるが如く、刀を返しての大下手切りだ――ッ!
「ワッ」
 悲鳴!
 血煙!
 血煙!
 いやその間に、一髪の間に――大下手切りの行なわれる、前一髪の際どい間に……
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1−3−28]秩父の郡《こおり》、小川村、
逸見《へんみ》様庭の桧の根
[#ここで字下げ終わり]
 そういう女の歌声が、手近かの所から聞こえてきた。
「あッ」と陣十郎は刀を引き、タジタジ[#「タジタジ」は底本では「タヂタヂ」]と数歩背後へ下った。


 無心に歌をうたいながら、源女は大薮の中にいた。
 いつも時々起こる発作が、昨夜源女の身に起こった。そこでほとんど夢遊病患者のように、赤尾村の林蔵の家を脱け出し、どこをどう歩いたか自分でも知らず、この辺りまで彷徨《さまよ》って来、この大薮で一夜を明かし、たった今眼醒めたところであった。
 まだ彼女の精神は、朦朧としていて正気ではなかった。
 島田の髷が崩れ傾《かしが》り、細い白い頸《うなじ》にかかってい、友禅模様の派手な衣裳が、紫地の博多の帯ともども、着崩れて痛々しい。素足に赤い鼻緒の草履を、片っぽだけ突っかけている。夜露に濡れたため衣裳はしおたれ[#「しおたれ」に傍点]、茨や木の枝にところどころ裂かれ、手足も胸元も薮蚊に刺され、あちこち血さえ出していた。
 そういう源女は身を横倒しにし、草の上に延びていた。秋草の花――桔梗や女郎花や、葛の花などが寝ている源女の、枕元や足下に咲いていた。栗色の兎がずっと離れた、萩の根元に一匹いて、源女の方を窺っていた。
 彼女の頭上にあるものといえば、樺や、柏や、櫟《くぬぎ》や、櫨《はぜ》などの、灌木や喬木の枝や葉であり、それらに取り縋り巻いている、山葡萄や蔦や葛であり、そうしてそれらの緑を貫き、わずかに幽かに隙《す》けて見える、朝の晴れた空であった。
 薮を透して日の光が、深い黄味を帯びて射し込んで来ていて、地上の草や周囲《まわり》の木々へ、明暗の斑《ふち》を織っていた。
 無心――というよりいつもいつも、心に執拗にこびりついている歌、例の歌を唄ってしまうと、彼女は恍惚《うっとり》と考え出した。こういう場合に彼女の脳裡へ、幻影のように浮かんで来るのは、大森林、大渓谷、大きな屋敷、大傾斜面、五百頭千頭もの放馬の群、それを乗り廻し追い廻し、飼養している無数の人、そうしてあたかも酒顛童子のような、長髪赧顔の怪異の老人――等々々のそれであった。
 しかし彼女はそういう所が、どこにあるかは知らなかった。そうしてどうしてそういう光景が、浮き出して来るかも知らなかった。とはいえ彼女はそういう光景の場所の、どこであるかを確かめなければならない、そうして是非ともその光景の場所へ、どうしても自身行かなければならないと、そんなように熱心に思うのであった。がそれとて自分自身のために、その場所を知ろうとするのでもなく、又行こうとするのでもなく、自分の難儀を救ってくれた人秋山要介という人のために、知りたい行きたいと思うのであった。
 浮かんで来る幻影を追いながら、今も彼女は思っていた。
(行かなければならない、さあ行こう!)
 で、彼女は立ち上った。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1−3−28]昔はあったということじゃ
昔はあったということじゃ
[#ここで字下げ終わり]
 又彼女は口ずさんだ。
 そうして大薮を分けながら、大薮の外へ出ようとした。
 その大薮の外側には、以前から彼女を狙っている吸血鬼水品陣十郎が、抜身を提げて立っているはずである。

10[#「10」は縦中横]
 後《あと》へ下った陣十郎は、刀を下段にダラリと下げ、それでも眼では油断なく、主水の眼を睨みつけ、歌主の在所《ありか》がどこであるかと、瞬間それについて考えた。
 周囲《あたり》には大薮があるばかりで、その他は展開《ひら》けた耕地であり、耕地には人影は見えなかった。
 声から云っても歌の性質《たち》から云っても、歌ったのは源女に相違ない。
 が、源女などはどこにもいない。
(さては自分の空耳かな?)
 それにしても余りに明かに、歌声は聞こえてきたではないか。
 源女だ源女だ歌ったのは源女だ!
 かつて一旦手に入れて、薬籠の物にしはしたが、その持っている一大秘密を、まだ発見しないうちに秋山要介に横取りされた女! お組の源女に相違ない!
 探して探して探し廻ったあげく、江戸は両国の曲独楽の席で、ゆくりなくも発見した。が、その直後に起こった事件――鴫澤庄右衛門を討ち果したことから、江戸にいられず旅に出たため、源女のその後の消息については、確かめることが出来なかった。
 その源女の歌声が、こんな所で聞こえたのであった。
(どうしたことだ? どうしたことだ?)
 不思議なことと云わなければならない。
(あの女を再び手に入れることが出来て、あの歌の意味を解くことが出来たら!)
 その時こそ運命が――解いた人の運命が、俄然とばかり一変し、栄耀栄華を尽くすことが出来、至極の歓楽を享けることが出来る!
(どうでもあの女を手に入れなければ!)
 だが彼女はどこにいるのだ?
 分を秒に割った短い間だ! 時間にして短いそういう間に、陣十郎の脳裡に起伏したのは、実にそういう考えであった。
 その間彼は放心状態にあった。
 何で主水が見逃がそうぞ!
 一気に盛り返した勇を揮い、奮然として切り込んだ。
 またも鏘然太刀音がした。
 放心状態にあったとはいえ、剣鬼さながらの陣十郎であった。何のムザムザ切られようぞ!
 受けて一合!
 つづいて飛び退いた、飛び退いた時にはもう正気だ! 正気以上に冴え切っていた。
(こやつを一気に片付けて、源女の在所《ありか》を突き止めなければならない!)
「ヤ――ッ!」と掛けた物凄い掛声!
 つづけて「ヤヤ――ッ、ヤヤ――ッ、ヤヤ――ッ!」
 先々の先の手一杯! さながら有段者が初心者を相手に、稽古をつけるそれの如く、主水が撃とう切ろう突こうと、心組む心を未前[#「未前」はママ]に察し、その先その先その先と出て、追い立て切り立て突き立て進んだ。
 またもや主水は薮際まで詰められ、眼眩みながら薮の裾を、右手へわずか廻り込もうとした時、天運尽きたか木の根に躓《つまず》き、横倒れにドッと倒れた。
「くたばれ!」
 シ――ンと切り下した!

11[#「11」は縦中横]
 シ――ンと切り下ろした陣十郎の刀が、仆れている主水を拝み打ちに、眉間から鼻柱まで割りつけようとした途端、日の光を貫いて小柄が一本、陣十郎の咽喉へ飛んで来た。
「あッ」と思わず声を上げ、胸を反らせた陣十郎は、あやうく難を免れたが、小柄の投げられた方角を見た。
 十数間のかなたから、一人の武士が走って来る。
「む!……秋山! ……秋山要介!」
 いかにも走って来るその武士は、今朝になって眼醒めて見れば、
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