昨夜から発作を起こしていた源女が、どこへ行ったものか姿が見えず、それを案じて探すために、林蔵の家を立ち出で、ここまでやって来た秋山要介であり、見れば宿意ある水品陣十郎が、これも因縁《ゆかり》ある鴫澤主水を、まさに討って取ろうとしていた。間隔は遠い、間に合わない。そこで小柄を投げたのであった。
 小柄を投げて陣十郎の兇刃を、制して置いて秋山要介、飛燕の如く飛び込んで来た。
 が、陣十郎もただ者ではない、主水を相手に戦って、既に躰は疲労《つかれ》ていた。そこへ剣豪秋山要介に新規の力で出られては、百に一つの勝目はない。――と見て取るや刀を引き、鞘にも納めず下げたままで、耕地を一散に走って逃げた。
 と、瞬間飛び起きたは、無念残念返り討ちだと、一刹那覚悟して仆れていた主水で、
「秋山先生、お礼は後刻! ……汝、待て――ッ、水品陣十郎! ……遁してなろうか、父の敵!」と、身体綿の如く疲労して居り、剣技も陣十郎と比較しては、数段も劣って居り、追っかけ追い詰め戦ったところで、あるいは返り討ちになろうもしれないと、そういう不安もありながら、みすみす父の敵に逢い、巡り合って刀を交したのに、そうしてその敵が逃げて行くのに、そうして一旦逃がしてしまったなら、いつふたたび巡り逢えるやら不明と思えば追わずにいられなかった。
 で、主水は刀を振り振り、陣十郎を追いかけた。
「待たれい! 主水殿、鴫澤氏!」
 追いついてよしんば戦ったところで、陣十郎に主水が勝つはずはない、返り討ちは見たようなものだ――と知っている秋山要介は、驚いて大音に呼び止めた。
「長追いなさるな! お引き返しなされ! またの機会をお待ちなされ」
 しかし何のそれを聞こう! 主水はよろめきよろめきながら、走り走り走って行く。
(尋常の敵を討つのではなく、親の敵《かたき》を討つのであった。子とあってみれば返り討ちも承知で、追いかけ戦うのが本当であろう)
 気がついた秋山要介は、孝子《こうし》に犬死させたくない、ヨーシ、追いついて後見《うしろみ》してやろう! 助太刀してやろうと決心し、袴の股立取り上げた途端、
「セ、先生、秋山先生!」と、背後から息せき呼ぶ声がし、やにわに袖を掴まれた。
「誰だ!」と怒鳴って顔を見た。
 林蔵の乾兒の藤作であった。

12[#「12」は縦中横]
「おお藤作、どうしたのだ?」
「タ、大変で……オ、親分が!」
「なに親分が? 林蔵がか?」
「へい、林蔵親分が、カ、街道で、あそこの街道で……タ、高萩の猪之松と……」
「うむ、高萩の猪之松と[#「猪之松と」は底本では「猪の松と」]?」
「ハ、果し合いだい、果し合いだい!」
「む――」と呻くと振り返り、要介は街道の方角を見た。
 旅人や百姓の群であろう、遠巻にして街道に屯し、じっと一所を見ている光景が、要介の眼に鮮かに見えた。彼等の見ている一所で、林蔵は怨ある猪之松と、果し合いをしているのであろう。要介も以前から林蔵と猪之松とが、勢力争い激甚であり、一度は雌雄を決するてい[#「てい」に傍点]の、真剣の切り合いをやるべきことを、いろいろの事情から知っていた。
(これはうっちゃって置かれない。林蔵を見殺しにすることは出来ない。聞けば高萩の猪之松は、逸見《へんみ》多四郎から教えを受け、甲源一刀流では使い手とのこと、林蔵といえどもこの拙者が、新影流は十分仕込んで置いた。負ける気遣いもあるまいが、もしも負れば師匠たる拙者の、恥にならないものでもない。林蔵と猪之松との果し合い、考えようによれば逸見多四郎と、この秋山要介との、果し合いと云うことにもなる。これはうっちゃっては置かれない)
「行こう、藤作!」と叫んだが、
(主水氏は?)とこれも気になり、走って行った方へ眼をやった。
 広い耕地をよろめきよろめき、陣十郎の後を追い、なお主水は走っていた。
(一人で行ったら返り討ち、陣十郎に討たれるであろう。……惜しい武士! 気の毒な武士! ……どうでも助太刀してやらねば……)
 ――が、そっちへ身を挺したら、林蔵はどういう運命になるか?
(どうしたら可《よ》いか? どうしたものだ?)
 知らぬ藤作は急き立てた。
「先生、早く、行っておくんなせえ! ……云いたいことはたくさんあるんで……第一女が誘拐《かどわか》されたんで……若い女が、綺麗な女が……誘拐した野郎は猪之松の乾兒と、その相棒の馬方なんで……最初《はな》は俺らと杉さんとで……へい、そうで浪之助さんとで、その女を助けたんですが……逃げた八五郎め馬方を連れて、盛り返して来てその女を……その時浪之助さんは留守だったんで……いやいやそんなこと! ……行っておくんなせえ、さあ先生! 親分が大変なんだ猪之松の野郎と! ……」
(行かなければならない!)と要介も思った。
(鴫澤氏は赤の他人、少くも縁は極めて薄い。林蔵の方は俺の弟子、しかも現在この俺は、林蔵の家に世話になっている。深い縁がある、他人ではない。……その林蔵を見殺しには出来ない! 行こう! しかし、そうだしかし、主水殿もお気の毒な! では、せめて言葉の助太刀!)
 そこで要介は主水の方に向かい、大音をもって呼びかけた。

13[#「13」は縦中横]
「鴫澤《しぎさわ》氏、主水殿! 敵水品陣十郎を追い詰め、見事に復讐をお遂げなされ! 拙者、要介、秋山要介、貴殿の身辺に引き添って、貴殿あやうしと見て取るや、出でて、必ずお助太刀いたす! ……心丈夫にお持ちなされい! ……これで可《よ》い、さあ行こう!」
 街道目掛けて走り出した時、
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1−3−28]今は変わって千の馬
五百の馬の馬飼の
[#ここで字下げ終わり]
 と、聞き覚えある源女の声で、手近で歌うのが聞こえてきた。
「や、……歌声! ……源女の歌声!」
 要介は足を釘づけにした。
 探していた源女の歌声が、手近の所から聞こえてきたのであった。足を止めたのは当然といえよう。
「源女殿! お組殿!」
 思わず大声で呼ばわって、要介は四辺《あたり》を忙《せわ》しく見た。
 丘、小山とでも云いたいほどに、うず高く聳えている薮以外には、打ち開けた耕地ばかりで、眼を遮る何物もなかった。
(不思議だな、どうしたことだ。……歌声は空耳であったのか?)
 陣十郎の感じたようなことを、要介も感ぜざるを得なかった。
「先生、どうしたんですい、行っておくんなせえ」
 要介に足を止められて、胆を潰した藤作が怒鳴った。
「第一先生がこんな方角へ、トッ走って来たのが間違いだ。俺ら向こうで見ていたんで。すると先生の姿が見えた。しめた、先生がやって来た、林蔵親分に味方して、猪之松を叩っ切って下さるだろう。――と思ったら勘違いで、こんな薮陰へ来てしまった。そこで俺ら迎えに来たんだが、その俺らと来たひ[#「ひ」に傍点]には、ミジメさったら[#「ミジメさったら」は底本では「ミヂメさったら」]ありゃアしない。馬方に土をぶっかけられたんで。と云うのも杉さんがいなかったんで。その杉さんはどうしたかというに、誘拐《かどわか》された女の兄さんて奴が――そうそう主水とか云ったっけ、そいつが陣十郎とかいう悪侍に、オビキ出されて高萩村の方へ行った。とその女が云ったんで、こいつ大変と杉さんがね、高萩村の方へ追って行ったんで。――が、まあ可《い》いやそんな事ア。よくねえなア親分の身の上だ、まごまごしていると猪之松の野郎に……あッどうしたんだ見物の奴らア……」
 いかさま街道や耕地に屯し、果し合いを見ていた百姓や旅人が、この時にわかに動揺したのが、要介の眼にもよく見えた。が、すぐに動揺は止んで、また人達は静かになった。緊張し固くなって見ているらしい。
 突嗟に要介は思案を定めた。
(ここら辺りに源女がいるなら、薮の中にでもいるのであろう。正気でないと云ったところで、直ぐに死ぬような気遣いはない。……林蔵と猪之松との果し合い、これは一刻を争わなければならない。よしそっちへ行くことにしよう。……が、しかし念のために……)
 そこで要介はまたも大音に、薮に向かって声をかけた。
「源女殿、要介お迎えに参った。どこへもおいでなさるなよ! ……」

14[#「14」は縦中横]
 街道では林蔵と猪之松とが、遠巻きに見物の群を置き、どちらも負けられない侠客《おとこ》と侠客との試合それも真剣の果し合いの、白刃を互いに構えていた。
 かなり時間は経過していたが、わずか二太刀合わせたばかりで、おおよそ二間を距てた距離で、相正眼に脇差をつけ、睨み合っているばかりであった。
 猪之松には乾兒や水品陣十郎の間に、何か事件が起こったらしく、耕地で右往左往したり、逃げる奴倒れる奴、そういう行動が感ぜられたが、訊ねることも見ることもできず、あつかう[#「あつかう」に傍点]こともできなかった。傍目一つしようものなら、その間に林蔵に切り込まれるからであった。
 林蔵といえどもそうであった、乾兒の藤作の声がしたり、杉浪之助の声がして、何か騒動を起こしているようであったが、どうすることも出来なかった。相手の猪之松の剣の技、己と伯仲の間にあり寸分の油断さえ出来ないからであった。
 が、そういう周囲の騒ぎも、今は全く静まっていた。数間を離れて百姓や旅人、そういう人々の見物の群が、円陣を作って見守っているばかりで、気味悪いばかりに寂静《ひっそり》としていた。
 二本の刀が山形をなし、朝の黄味深い日の光の中で、微動しながら浮いている。
 二人ながら感じていた。――
(ただ目茶々々に刀を振り廻して、相手を切って斃せばよいという、そういう果し合いは演ぜられない。男と男だ、人も見ている。後日の取沙汰も恐ろしい。討つものなら立派に討とう! 討たれるものなら立派に討たれよう!)
 二人ながら心身疲労していた。
 気|疲労《つかれ》! 気疲労! 恐ろしい気疲労!
 技が勝れているだけに、伎倆《うで》が伯仲であるだけに、その気疲労も甚だしいのであった。
 向かい合っていた二本の刀の、その切先がやがて徐々に、双方から寄って来た。
 見よ二人ながら踏み出している右足の爪先が蝮を作り、地を刻んで一寸二寸と、相手に向かって進むではないか。
 ぢ――ン[#「ぢ――ン」はママ]!
 音は立たなかった。
 が、ぢ――ン[#「ぢ――ン」はママ]と音立つように、互いの切先が触れ合った。
 しかしそのまま二本の刀身は、一度に水のように後へ引き、その間隔が六歩ほどとなった。
 そうしてそのまま静止した。
 静止したまま山形をなし、山形をなしたまま微動した。
 薄くポ――ッと刀と刀の間に、立ち昇っているのは塵埃《ほこり》であった。
 二人の刻んだ足のためにポ――ッと立った塵埃であった。
 間、
 長い間。
 天地寂寥。
 が、俄然二本の刀が、宙で烈しくもつれ合った。
 閃光! 太刀音! 鏘然! 鍔鳴り!
 で、Xの形となって、二本の刀は交叉され、わずかに左右に又前後に、揺れつ縒れつ押し押されつ、粘ったままで放れなかった。

15[#「15」は縦中横]
 鍔競り合い!
 眼と眼との食い合い!
 そうだ、林蔵と猪之松との眼が、交叉された刀の間を通し、互いに食い合い睨み合っている。
 鍔競り合いの恐ろしさは、競り合いから離れる一刹那にあった。胴を輪切るか真っ向を割り付けるか、伎倆《うで》の如何《いかん》、躰形《たいけい》の如何、呼吸の緩急によって変化縦横! が、どっちみち恐ろしい。
 林蔵も猪之松も一所懸命、相手の呼吸を計っていた。
 と、交叉された刀の間へ、黒く塗られた刀の鞘が、忍びやかに差し込まれた。
「?」
「?」
 鞘がゆるゆると上へ上った。二本の白刃を持ち上げるのである。と、威厳ある声がした。
「勝負待て! 刀を引け! 仲裁役は秋山要介!」
 声と同時に刀の鞘が、二本の刀身を左右に分けた。
 二間の距離を保ちながら、尚、残心、刀を構え、睨み合っている林蔵と猪之松、その間に鞘ぐるみ抜いた太刀を提げて、ノビノビと立ったのは秋山要介で、まず穏かに林蔵へ云った。
「刀を鞘へ納めるがよ
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