主水の、眼前を閃めく白刃の光!
「音!」
 鏘然!
 陣十郎と、はじめて主水は一合した。
 が、次の瞬間には、互いに飛び違い構えたが、敵《かな》わぬと知ったか復《また》も卑怯、陣十郎は走り出した。
「待て、汝、卑怯未練! 逃げようとて逃がそうや!」
 追っかけたが妹が気にかかり。
「澄江ヨ――ッ」と呼ばわり振り返った。


「お兄イ様ア――ッ」と答える澄江の声が聞こえ、つづいてワ――ッという悲鳴が聞こえ、その澄江に突かれたのであろう、一人の博徒が横腹を抑え、街道から耕地へ転がり落ちる姿と、散った博徒の間を突破し、こっちへ走って来る澄江の姿とが見えた。
「妹、見事! ……兄はここじゃ!」
 呼ばわった主水の背後から、
「勝負! 主水! 参るゾッ」という、陣十郎の声が聞こえた。
「参れッ」と叫んで振り返り、途端に日の光を叩き割り、切り込んで来た陣十郎の刀を、鍔際で受けて頭上に捧げ、皮を切らせて敵の肉を切る、入身捨身仏魔《いりみしゃしんぶつま》の剱! それで切り込んだ主水の刀を、何と無雑作に陣十郎は、受けもせず横に払い捨て、刀を引くと身を翻えし、またも一散に走り出した。
 策有って逃げると感付かぬ主水、
「またも逃げるか、未練の陣十郎! 遁さぬ、返せ、父の敵!」
 叫んで追い、追いつつ振り返り、
「妹ヨーッ、ここじゃ、兄はここじゃ! ……待て陣十郎、逃げるとは卑怯……妹ヨーッ」と十間二十間! 既に二町を街道から離れた。
 行手に巨大な薮があり、丘の如くに盛り上っていたが、その裾を巡って走って行く、陣十郎の後を追い、これも薮を向こうへ廻り、振り返っても街道は見えず、妹の姿も見えなくなった時、
「主水」と叫んで陣十郎が、自身《おのれ》と後へ引っ返して来、
「フ、フ、フ、不愍の痴者《しれもの》、ここまで誘き寄せられたか。……誘き寄せようため逃げた拙者、感付かぬとは扨々《さてさて》笑止、が、そこがこっちの付目、人目あっては嬲殺しは出来ぬ、今は二人だ、二人ばかりだ、逃がそうとて拙者は逃げぬ、逃げようとて汝《おのれ》逃がさぬ、薮を盾に人目を遮り、久しく血を吸わぬこの業物《わざもの》に、汝の血を吸わせてやる。……ゆるゆると殺す、次々に切る。……まず最初に右の手、つづいて左の手を切り落とす。つづいて足じゃ、最後に首じゃ! ……前代未聞の返り討ちに、汝逢ったと閻魔の庁で、威張って宣《なの》り[#「宣《なの》り」は底本では「宜《なの》り」]通れるよう、むごたらしく[#「むごたらしく」に傍点]きっと殺してやる! ……さあこの構え、破らば破れッ」
 極悪非道の吸血鬼、変質性の惨虐の本性、今ぞ現わして陣十郎は、甲源一刀流上段の構え、左足を踏み出し太刀を振り冠り、左手の拳、柄頭の下から、憎々しく主水を横平に睨み、鍔際を握った右の手で、からかう[#「からかう」に傍点]ように太刀を揺すぶった。
 勝れた業の恐ろしさよ! 振り冠られた刀身は、凍った電光のそれのように、中段に太刀を付けた主水の全身を、威嚇し圧して動かさなかった。
 八方へ心を配ったあげく、博徒一人をともかく切った。人一人切った心身の疲労《つかれ》、尋常一様のものではない。のみならず敵を追い二町の耕地を、刀を振り振り走って来た。その疲労とて一通りではない。主水は疲労に疲労ていた。そのあげくに向けられた悪剣!
 眩む眼! 勢《はず》む呼吸《いき》!


 博徒|〆松《しめまつ》の横腹を、懐剣で一突き突いて倒し、散った博徒の間を突破し、陣十郎の後を追う、兄主水に追い付こうと、澄江は疲労に疲労た足で、耕地を一散に走ったが、懲りずに追い縋る博徒三人に、又も囲まれ切り込まれた。
「まだ来る気か!」と女ながらも、田宮流の小太刀を使っては、男勝りの手練の女丈夫、しかし獲物は懐剣であった、相手の脇差は受けられない、そこで飛び違い遣り違わせ、機を見て突きつ切りつして、
「お兄イ様ア――ッ」と呼ばわり呼ばわり、主水の後を追おうとした。
 と、気づいて主水の方を見た。
 主水の姿が見えなくなっていた。
 驚き、落胆し、放心しようとした。
 クラクラと眼が廻り、全身の力が一時に脱け、腕が烈しく動悸打ち、眼の先が暗くなった。
 たった先刻《さっき》まで陣十郎を追い追い、自分の名を呼んで力づけてくれた兄! その兄はどこへ行った? 陣十郎のために殺されたか? 広い耕地、飛々にある林……丘、大薮、畦、小川……遥か彼方には秩父連山! ……朝の日が野面にいっぱいに充ち、小鳥が四方に翔けている。……兄の姿も陣十郎の姿も、その野面のどこにも見えない。
「お兄イ様ア――ッ」と呼ばわった。
 木精《こだま》さえ返って来なかった。
 クラクラと眼眩み倒れようとした。
 そうでなくてさえ荒くれ男、数人を相手に闘ったあげく、一人を突いて倒していた。疲労困憊その極にあった。しかも今も切りかかって来ている。そこへ兄であり恋人であり、許婚《いいなずけ》でもある主水の姿が見えなくなってしまったのである。
 恐怖、不安、焦燥、落胆!
 フラフラと倒れかかった。
「くたばれ――ッ」とばかりそこを目掛け、博徒権六が切り込んだ。
 あやうく反わしたが躓《つまず》いて、澄江はドッと地に倒れた。
「しめた」と峯吉が切り下ろした。
 パ――ッ! 倒れた姿のままで、早速の気転土を掬い、澄江は峯吉の顔へ掛けた。
「ワッ」
 よろめき眼を抑え、引いたのに代って八五郎が、
「洒落臭え女郎!」と突いて来た。
 ゴロリ! 逆に八五郎の方へ、寝返りを打って片手を延ばし、八五郎の足の爪先を掴み、柔術の寝業、外へ捻った。
「痛え!」
 悲鳴して倒れた途端に、澄江は飛び起きフラフラと走り、
「お兄イ様ア――ッ」と悲しそうに呼んだ。
 が、これがほとんど最後の、彼女の懸命の努力であった。
 二間あまりも走ったが、不意に立ち止まるとブルブルと顫え、持っていた懐刀をポタリと落とし、あたかも腐木が倒れるように、澄江は地上へ俯向けに倒れた。
 意識が次第に失われて行く。
 その消えて行く意識の中へ、入って来る[#「入って来る」は底本では「入って來る」]博徒達の声といえば、
「殺すのは惜しい、担いで行け」


 澄江を担いで三人の博徒が、高萩村の方へ走り出した時、街道へ二つの人影が現われ、指差ししながら話し合った。
 杉浪之助と藤作であった。
 今朝笹屋で眼をさまして聞くと、親分林蔵は少し前に、一人で帰ったということであった。そこで二人は少なからずテレて、急いで仕度《したく》をし出て来たところで、みれば博徒風の三人の男が、若い一人の女を担ぎ、耕地を走って行くところであった。
「この朝まだきに街道端で、女を誘拐《かどわか》すとは不埒千万、藤作殿嚇して取り返しましょうぞ」
「ようがす、やりましょう、途方もねえ奴らだ」
 二人は素早く追いついた。
「やい待て待て、こいつらア――ッ」
 まず藤作が声を上げた。
「女を誘拐《かどわか》すとは何事だ! ……ヨ――、汝《うぬ》らア高萩の、猪之松身内の八五郎、峯吉!」
「何だ何だ藤作か! チェッ、赤尾の百姓か!」
 峯吉が憎さげにそう叫んだ、
「百姓とは何だ、溝鼠。……杉さん、こいつらア猪之松の乾兒《こぶん》で……」
 それ以前から[#「それ以前から」は底本では「それ以然から」]杉浪之助は、担がれている女へ眼をつけたが、姿こそ旅装で変わってはいたが、いつぞやの夜、本郷の屋敷町で、危難を秋山要介と共に、救ってやった鴫澤《しぎさわ》家の娘、澄江であることに気がついた。
「やあ汝《おのれ》ら!」と浪之助は叫んだ。
「その女は拙者の知人、汝らに担がれ行くような、不束《ふつつか》のある身分の者ではない。……放せ! 置け! 汝等消えろ!」
「何を三ピン」と八五郎は怒鳴った。
「どこの二本差か知らねえが、俺らの獲物を横から来て、持って行こうとは気が強えや! ……問答は無益だ叩きのめせ!」
「よかろう、やれ!」と命知らず共、担いでいた澄江を抛り出すと、脇差を抜き無二無三に、浪之助と藤作とに切ってかかった。
「殺生ではあるがその儀なれば」
 刀を引き抜き浪之助は、ムーッとばかりに中段につけた。
 性来堕弱の彼ではあり、剣技にも勝れていない彼ではあったが、三カ月というもの秋山要介に従い義侠の精神を吹き込まれ、かつは新影流《しんかげりゅう》の教えを受けた。名人から受けた三カ月の教えは、やくざ[#「やくざ」に傍点]の師匠の三年に渡る、なまくら[#「なまくら」に傍点]の教えより功果がある。今の浪之助というものは、昔の浪之助とは事変わり、気魄横逸勇気凜々、真に大丈夫の俤《おもかげ》があった。
 その浪之助に構えられたのである。
 博徒共は怖気を揮った。
 三人顔を見合わせたが、誰云うともなく、
「いけねえ」
「逃げろ!」
 三方に別れて逃げてしまった。
 と見て取った浪之助は、刀を鞘へ納めるのも忙しく、澄江の側へ走り寄り、地に膝突き抱き介《かか》え、
「澄江殿! 澄江殿!」と呼ばわった。が気が付き、
「これは不可《いけ》ない。気絶して居られる、では、よし」と、急所を抑え「やッ」と活だ!


「あッ」と澄江は声を上げ、息吹き返し眼を見開らき、茫然と空を眺めたが、
「お兄イ様ア――ッ」と恋しい人を、苦しい息で血を吐くように呼んだ。
「拙者でござるぞ、杉浪之助で! 気が付かれたか、拙者でござるぞ!」
 そう呼ぶ浪之助の顔を見詰め、しばらく澄江は不思議そうに、ただハッハッと荒い息をしたが、
「お、お――、貴郎《あなた》様は……いつぞやの晩……あやうい所を……」
「お助けいたした杉浪之助! 再度お助けいたしたは、よくよくの縁、ご安心なされ! それに致してもこの有様は?」
「は、はい、有難う存じます。ご恩は海山! ご恩は海山! ……お兄イ様ア――ッ」とまたも呼んだ。
「お兄イ様とな? 主水殿か? ……その主水殿、如何《いかが》なされた?」
「敵《かたき》……父上の……父上の敵……陣十郎に巡り逢い……切り合う間に兄上には、陣十郎に誘き出され! ……向こうへ、向こうへ、向こうへ行き……そのまま姿が見えずなり……お兄イ様ア――ッ」とまたも呼び、再び気絶したらしく、ぐったりとなりもたれ[#「もたれ」に傍点]かかった。
「おおそうか、さてはお二人、兄妹お二人敵討ちの旅に、お出でなされたと伝聞したが、その敵の水品陣十郎に、おおそうか、さてはここで、お出逢いなされて切り合ったのか。……それにしても無双の悪剣の使手、陣十郎と太刀打ちしては、主水殿に勝目はない。……その陣十郎に誘き出された? ……一大事! 捨てては置けぬ! ……とは云えどこへ? どこへ主水殿は?」
 向こうへ向こうへと云ったばかりで、どの方角へ行ったとも云わず、再度澄江は気絶してしまった。
「どこへ? どっちへ? 主水殿は?」
「杉さん……てっきり……高萩村だア!」
 それまで側《そば》に佇んで、気を揉んでいた藤作が叫んだ。
「このお女中を引っ担ぎ、連れて行こうとしたからにゃア、先刻《さっき》の奴らァ陣十郎とかいう、悪侍の一味でごわしょう。その先刻の奴らといえば、高萩村の猪之の乾兒で。ですから恐らく陣十郎って奴も猪之の家にいるのでござんしょう。ということであってみれば陣十郎とかいう悪侍、主水様とかいうお侍さんを、高萩村の方角へ……」
「いい考え、そうだろう。……では拙者はその方角へ……藤作殿頼む、澄江殿の介抱! ……」
「合点、ようがす、貴郎は早く……」
「うむ」と云うと股立取り上げ、大小の鍔際束に掴み、大薮のある方角とは、筋違いの方角高萩村の方へ、浪之助は耕地の土を蹴り、走った、走った一散に走った。
 この時上尾宿の方角から、馬大尽を迎えに出、慰労とあって猪之松により、乾兒共々上尾宿の、山城屋で猪之松に振舞われ、少し遅れてその山城屋を出た、高萩村に属している、四人の博労が酔いの覚めない足で、機嫌よくフラフラと歩いて来た。


 それへぶつかっ[#「ぶつかっ」に傍点]たのは八五郎であった。
 浪之助のために威嚇され、盲目滅法に逃げて来
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