。
(澄江が水品陣十郎と、寝泊りをして旅をして来たとは!)
このことが気鬱の原因であった。
互いに過去の話をした時、このことを澄江は主水に話し、寝泊りして旅こそして来たが、躰に――貞操には欠けるところがないと、このことについては力説した。そこで主水もお妻と一緒に、寝泊りをして旅をして来たことを、きわめて率直に打ちあけて、そうしてやはり肉体的には、なんら欠点のないということを、澄江が安心するように話した。
艱難辛苦をしたあげく、久しぶりで逢った主水と澄江とは、その邂逅に歓喜して、疑わしい過去のそういう生活をも、疑うことなく許し合った。
が、その歓喜がやがて消えて、平静の生活に返って来ると、相互にこのことが疑われ出した。
二人は兄妹とはいうものの、行く行くは夫婦になるべきところの、義兄妹であり許婚《いいなずけ》であった。
そうして水品陣十郎が、父庄右衛門を殺害《さつがい》したのは、澄江に横恋慕した結果からのはずだ。
その陣十郎と二人だけで、寝泊りして旅をして来たという!
主水は苦悶せざるを得なかった。
2
主水が苦悶すると同じように、澄江も苦悶せざるを得なかった。
(あの好色のお妻という女と、一つ宿に寝泊りして、旅をして幾日か来たからには、ただではすむべきはずがない。情交があるものと思わなければならない)
苦悶せざるを得ないのであった。
そういう二人の心持を――その苦しい心持を、カラリと晴らす方法はといえば、陣十郎とお妻とが現われて来て、その二人が自分の口から、そういう関係のなかったということを、証明するより外はなかった。
ところが二人は二人ながら、主水たちの敵であり、その行衛《ゆくえ》は未だに知れない。従って二人の苦しい心持の、解け消える機会はないのであった。
「澄江殿」と他人行儀の、冷い口調で主水は云った。
「長の月日お父上の敵、陣十郎めを討とう討とうと、千辛万苦いたしても、今に討つことならぬとは、われわれ二人神や仏に、見放された結果かもしれませぬ……将来どのように探そうとも、陣十郎の行衛結局知れず……知れず終《じま》いになろうもしれませぬ……わしにとっては無念至極ではござるが、澄江殿にとってはその方が、かえってよいかもしれませぬのう……アッハッハッよいともよいとも!」
「…………」
澄江は返事をもせず首垂れていた。
(また皮肉を仰有《おっしゃ》ると見える。……わたしはもう何にも云うまい)
こう思って黙っているのであった。
「のう澄江殿」と又主水は、意地の悪い調子で云いつづけた。
「わしには不思議でなりませぬよ……お父上の敵の陣十郎と、一緒に旅をして居りながら、その敵を討って取ろうと、一太刀なりと加えなかったとは」
「…………」
「弱い女の身にしてからが、同じ部屋に寝泊りして来た以上、相手の眠りをうかがって、討ちとる機会はありましたはずじゃ……それを見遁して討たなかったからには、討てない理由があったものと……」
「…………」
「わしは不幸だ!」と不意に主水は、昂奮して血走った声で叫んだ。
「敵に肌身を穢された女を、妻にしなければならないとは!」
「あなた!」と澄江は顔色を変え、躰をワナワナ顫わせて、腹に据えかねたように叫び返した。
「以前にも再々申しましたとおり、陣十郎と連立って、道中旅をして参りましたは、秩父の高萩の猪之松の家で、馬大尽の井上嘉門に、すんでに肌身穢されようとしたのを、陣十郎に助けられましたからで……恩は恩、仇は仇、なんのお父上の敵などに、この肌身を穢させましょうや……道中陣十郎を見遁しましたは、助けられた恩からでございます……それにいたしましても貴方《あなた》様に――未来の良人のあなた様に、そのようなことを疑われましては、生きて居る望みござりませぬ! 死にます死にます妾は死にます!」
いきなり刀を取って抜いた。
3
主水は仰天して腕を伸ばし、その抜身をもぎ取った。
澄江は畳へ額をつけ、ひた泣きに泣くばかりであった。
抜身を鞘へそっと納め、手の届かない遠くへ押しやり、主水も腕を組んで考え込んだ。
(地獄の苦しみだ)とそう思った。
(こういう苦しみをするというのも、みな水品陣十郎のためだ)
またここへ考えが落ちて行った。
(どうともして早くあいつの居場所を、探り知って討ち取りたいものだ)
(旅用の金も残り少なになった)
このことも随分辛いのであった。
胸は苦しく頭痛さえして来た。
不意に主水は立ち上り、障子をあけ、雨戸をあけ、縁に立って戸外を見た。
一跨ぎにも足りない竹垣をへだて、向かいはずっと田畑であり、月の光が農作物の上に、水銀のように照っていた。
でも一方右手の方には、逸見《へんみ》三家中の名古屋逸見家の、大旗本の下屋敷のような、宏大な屋敷の一部が、黒く厳めしく立っていて、それが月光を遮っているので、その辺り一体が暗く見えていた。
(ああいう所には有り余る金が、腐るほど死蔵されているのだろうなあ)
ふとこんなことが思われて、主水はその方を眺めやった。
秋山要介は屋敷町を抜けて、大曾根の方へ歩いていた。
尾張家の相当の使い手の武士を、乞食風情で小屋の裾から、一刀に足を斬ったという――このことが要介には不思議でならず、いずれその乞食は武士あがりの、名ある人間に相違ない、人物を見素性を知りたいものだ、それに自分が武芸者だけに、研究心と好奇心とから、その乞食と逢おうために、酒宴の席から抜け出して、こうして歩いて来たのであった。
そして大曾根に辿りついた。
飛々に農家があるばかりで、後は一面の耕地であり、ただ一所に宏大極まる名古屋逸見家の大屋敷が、この辺り一体を支配するかのように、月光の中に黒く高く、厳しく立っているばかりであった。
土塀を四方に厳重に巡らし、土塀の内側へ植込を茂らせ、夜鳥を宿らせているらしく、時々啼音が落ちて来た。
その屋敷の横を通り、要介は先へ進んで行った。
と、遥かの行手にあたって、掘っ建て小屋が点々と、みすぼらしい形に並んでいるのが見えた。
その方へ要介は進んで行った。
しかしにわかに足を止め、
「はてな」と呟いて凝視した。
小屋から十数人の人影が、バッタのように飛び出して来て、それが一団にかたまって、こっちへ歩いて来るからであった。
なんとなく異様に思われたので、積藁の陰へ身をかくし、要介はしばらく待っていた。
編笠をかぶり、撞木杖をついた、浪人を先頭に立てながら、乞食の一団が近寄って来た。
撞木杖の武士
1
乞食の一団は話し合いながら、逸見《へんみ》屋敷の方へ歩いて行った。
「試し切りに来たらしい尾張藩の武士を、菰垂の裾からただ一刀に、足をお斬りになった先生の腕前、まったく凄いものでございましたよ」と、一人の乞食が感嘆したように云うと、
「あれなどは小供だましさ」と撞木杖の武士は事も無げに、
「足が満足であった頃には、五人であろうと、十人であろうと、撫斬りにしたものだったが」と、感慨深そうにそう云った。
要介は黙って積藁の陰で、そういう話を聞いていたが、彼らがその前を行き過ぎると、その後から付いて行った。
(撞木杖をついている片脚の武士が、尾張家の武士を菰垂の裾から、一刀に斬った奴なのだな)
こう思ったからである。
乞食の一団は逸見屋敷の裏門の前で足を止めた。
逸見屋敷の巨大な内土蔵の中に、二人の人間が話していた。
一人は馬大尽の井上嘉門であり、もう一人は逸見多四郎であった。
二人の眼前にあるものといえば、鋲や鉄環で鎧われたところの、巨大ないくつかの唐櫃であり、その中に充ちている物といえば、黄金の延棒や銀の板や、その他貴金属の器具や武具であった。
昭和年間の価値に換算したら、何百萬両になろうとも知れなかった。
「なるほど」と多四郎は溜息をしながら云った。
「伝説以上の莫大な財産で」
「さようで」と嘉門は頷いて云った。
「名古屋逸見家にある分だけが、これだけなのでございます……。この他に知多の逸見家にも、また犬山の逸見家にも、これほどの財宝が蔵してありますので」
「その三家を支配している者が、貴殿井上嘉門殿なので」
「はい代々井上嘉門が支配いたして居りました。……で、この秘密を保つために、逸見三家は家憲として、外界《そと》との交際を避けて居りました」
「それは聡明なやり口ではござるが、しかしこれほど莫大な財宝を、死蔵いたすということは……」
「さようさよう」と嘉門は云った。
「今後これまでのような保存のやり方では、よろしくないように存ぜられまする……それにこのように貴方《あなた》様へ財宝の在り場所お知らせした以上、今後ともお力添《ちからぞ》えをいただいて、この財宝の使用方につき、研究いたしたく存じまする」
「結構、何なりとお力になりましょう」
それにしてもどうしてこの二人が、こんな逸見家などにいるのであろう?
それは例の騒動から嘉門や多四郎たちは木曽福島に遁れ、そこから共に名古屋の地へ来、逸見三家の実際の主人が、井上嘉門その人だったので、まず名古屋逸見家の屋敷へ、一同入ったのにすぎないのであった。
2
この時|主家《おもや》の方角から、喧騒の声が聞こえてきた。
嘉門と多四郎とは眼を見合せたが、内蔵を出ると扉をとじ、主家の方へ走って行った。
見れば、一大事が起こっていた。
得物を持った多数の乞食が、撞木杖をついた浪人に指揮され、家財を奪おうとしているのを、家の者が防いでいるのであった。
編笠を刎ねのけた撞木杖の武士は、ほかならぬ水品陣十郎であった。
その陣十郎は右の片手で、お妻の襟がみを掴んでいた。
井上嘉門の領地内で、一騒動を起こしたが、自分も負傷して不具となった。左の片足を傷つけたのである。
福島へ出、名古屋へ出た。
生活の道がなかったので、とうとう乞食にまでおちぶれてしまった。
乞食仲間を煽動し、今宵逸見家を襲ったのは、金銭を得ようためだったのである。さて逸見家へ乱入して見れば昔の情婦で自分を裏切ったお妻が、意外にも姿を現わした。
「おのれ!」とばかり引っとらえたのである。
と、そこへ駈け込んで来たのが、嘉門とそうして多四郎とであった。
「陣十郎オーッ」
「あッ、逸見先生!」
陣十郎は仰天し、片手でお妻を小脇に抱くと、撞木杖を飛ばして走り出した。
「待て! 陣十郎オーッ」と追う多四郎を、乞食どもは遮った。
「邪魔するか汝《おのれ》!」と怒った多四郎が、刀を抜いた瞬間に、乞食を背後から斬り仆す者があった。
それは秋山要介であった。
「や、貴殿は秋山氏!」
「おおこれは逸見先生で」
「秋山氏には、どうしてここへ?」
「乞食ども怪しい片輪武士と、ともどもこの屋敷へ潜入いたしましたを、つけて参って拙者見届け、押込みと推し、ご注意いたそうと、拙者も潜入いたした次第で」
「その片輪武士こそ陣十郎でござる」
「ナニ、陣十郎? さようでござったか。……してそ奴、陣十郎めは?」
「お妻と申す女を奪い、たった今しがた逃げましてござる」
「追いましょう、逃がしてはならぬ」
「御意で! 追いましょう、遠くは行くまい!」
多四郎と要介とは走り出した。
乞食どもはいつか逃げ散っていた。
お妻を引っかかえた陣十郎は、この頃耕地を走っていた。
後から追って来る足音がする。
(どこかへ隠れて……隠れなければならない)
見れば一軒の農家があって、燈火の光が洩れて見えた。
(よしあそこへかくまって[#「かくまって」に傍点]貰おう)
陣十郎はそっちへ走った。
雨戸が一枚あいていて、人の姿がそこにぼんやりと見えた。
「狼藉者に襲われましたもの、しばらくおかくまい[#「おかくまい」に傍点]下されい」
「よろしゅござる」とその人は云い、一方へ躰を開いた。
本懐遂ぐ
で、燈火が雨戸の間から、ほのかながらも庭先へ射した。
「やア、汝は水品《みずしな》陣十郎オーッ」
「誰だ? やア鴫澤主水《しぎさわもんど》かアーッ」
縁に佇んでいた者は、鴫澤主水その人であった。
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