郎は凄じく云った。
「不肖な弟子を手討ちにいたす!」
するとこの時まで多四郎の言葉を黙々として聞いていた林蔵が、抜身をソロリと鞘におさめ、つかつかと多四郎の前へ出て云った。
「逸見先生に申し上げまする、私をもお手討ちにして下さいませ」
首をすっと差しのべた。
「?」
多四郎はただ林蔵を見詰めた。
「先生の秘蔵弟子の猪之松殿を、不肖におとしましたは、この林蔵にござりまする」
「…………」
「林蔵さえ争いを仕掛けませねば、穏和な高萩の猪之松殿には決闘などいたしはしませぬ」
「…………」
「私をもお手討ち下さりませ」
そういう林蔵の真面目な顔を、多四郎はつくづく眺めていたが、
「さすがは男、立派なお心! 多四郎ことごとく感心いたしてござる……そこで多四郎よりお願いすることがござる。……林蔵殿、猪之松と和解下さい……」
「…………」
「一つ秩父《ちちぶ》の同じ地方で、それほどの立派な男が二人、両立して争うとはいかにも残念! 戦えば両虎とも傷つきましょう。和解して力を一つにすべきじゃ」
「殿様……」と林蔵は頭を下げた。
「まことにごもっとものお言葉、林蔵身にしみてござります――高萩のに否《いな》やありませねば、私よろこんで和解いたしたく――」
「おお赤尾の俺とて承知だ!」と猪之松も嬉しそうに決然と云った。
「これまでのもつれ[#「もつれ」に傍点]水に流して、二人和解し親しくなろうぜ」
この時木陰から声がかかった。
「この要介も大賛成じゃ」
秋山要介が木陰から出て来た。
4
そうして、その後からついて来たのは浪之助とそうして源女であった。
いずれも井上嘉門の領地の一大混乱の渦から遁れ、ここまで下って来たのであった。
そうして要介は木陰に佇み多四郎の扱いを見ていたのであった。
「猪之松と林蔵との和解は賛成、重ねて逸見殿と拙者との争いも、和解ということになりましょうな」
磊落な要介はこう云って笑った。
「おおこれは秋山氏が、意外のところでお目にかかりました。林蔵殿と猪之松との和解、貴殿と拙者との武芸争いの和解! いずれをもご賛成下されて逸見多四郎満足でござる」
多四郎もいかにも嬉しそうに云った。
「それに致しても秋山殿には何用あって、このような所に?」
「それは拙者よりお訊きしたい位で、何用あって逸見殿にはこのような所においでなさるるな?」
「実は井上嘉門殿の屋敷に、滞在いたして居りましたところ……」
「これはこれは不思議なことで、拙者も井上嘉門殿の屋敷に滞在いたして居りましたので……」
「や、さようで、一向存ぜず、彼の地にて御面会いたすこと出来ず、残念至極に存じ申す」
「しかるに今回の騒動! そこで引揚げて参りましたので」
「実は拙者も同様でござる」
この時嘉門は駕籠から出て、改めて要介へ挨拶をした。
「ここに居りましても致し方ござらぬ、ともかくも福島まで引揚げましょう」
こう多四郎が云ったので、一同それに同意した。
一同がこの地から立ち去った後は、またこの地はひとしきり、深い林と月光との、無人の静かな境地となっていた。
しかし岩陰には陣十郎が負傷に苦しんで呻いていた。
大岩の陰にいたために、多四郎にも要介にも見あらわされず、そのことは幸福に感じられたが、お妻や源女を見かけながら、どうにもすることが出来なかったことは、彼には残念に思われた。
「ここに居ても仕方がない」
こう思って彼は立ち上った。
「痛い! 痛い! 痛い!」と声をあげ、陣十郎はすぐに仆れ、右の足の膝の辺りを抑えた。
「あッ……膝の骨が砕けて居るわ」
やがて秋が訪れて来た。
御三家の筆頭尾張家の城下、名古屋の町にも桜の葉などが風に誘われて散るようになった。
この頃知行一万石、石河原《いしかわら》東市正のお屋敷において月見の宴が催され、家中の重臣や若侍が、そのお屋敷に招かれていた。
竹腰但馬、渡辺半左衛門、平岩|図書《ずしょ》、成瀬|監物《けんもつ》、等々の高禄の武士たちは、主人東市正と同席し、まことに上品におとなしく昔話などに興じていたが、若侍たちは若侍たちで、少し離れた別の座敷であたかも無礼講の有様で、高笑、放談、自慢話――女の話、妖怪変化の話、勝負事の話などに興じていた。
と佐伯勘六という二十八九歳の侍が、
「辻斬の噂をお聞きかな」と、一座を見廻して云い出した。
月見の宴で
1
「辻斬の噂、どんな辻斬で?」と前田主膳という武士が訊いた。
「撞木杖をついた跛者《びっこ》の武士が辻斬りをするということで厶《ござ》るが」
「その噂なら存じて居ります」
「不思議な太刀使いをするそうで」
「こうヒョイと車に返し、すぐにドッと胴輪切りにかける――ということでありますそうで」
この話はこれで終ってしまった。
盃が廻り銚子が運ばれ、お酌の美しい若衆武士が、華やかに座を斡旋して廻った。
「拙者数日前備前屋の店頭で、長船《おさふね》の新刀をもとめましたが、泰平のご時世試し斬りも出来ず、その切れ味いまに不明、ちと心外でございますよ」
と、川上|嘉次郎《かじろう》という武士が云って、酔った眼であたりを見廻した。
「貴殿も新刀をおもとめか、実は拙者ももとめましてな……相州物だということで厶るが、やはり切れ味は不明で厶る」
こう云ったのは二十五六才の、古巣右内という武士であった。
「ナーニ切れ味を知りたいとなら、近くの大曾根の田圃へ行き、乞食でも斬れば知れ申すよ」と柱に背中をもたせかけて、赧顔を燈火に照し、少し悪酔をしたらしい、金田一新助という武士が云い、
「近来お城下に性のよくない、乞食が殖えたようで、機会あるごとにたたっ斬った方がよろしい」
「なるほどこれは妙案で厶るな」
「乞食なら斬ってもよろしかろう」と二三人の武士が雷同した。しかしこの話もこれで終り、女の話へ移って行った。
「拙者ひどい目に逢いましたよ」
瀬戸金彌という二十二三の武士が、苦笑いしながら話し出した。
「数日前の夜で厶るが、大須の境内を歩いて居りますと、若い女が来かかりました。あの辺りのことで厶るによって、夜鷹でもあろうと推察し、近寄ってヒョイと手を取りましたところ、その手を逆に返されまして、途端に拙者ころびましたが、どうやら女に投げられたようで」
「アッハッハッ」と一同は笑った。
「女をころばすのは判っているが、女にころばされるとはサカサマじゃ」
「そこが色男の本性かな」
「その女|柔術《やわら》でも出来るのかな?」
「さようで」と金彌という武士は云った。
「零落をした武家の娘――と云ったような様子でござった。身装は穢くありましたが、顔や姿は美しく上品でありましたよ」
この時川上嘉次郎と、古巣右内とが囁き合い、金田一新助へ耳うち[#「うち」に傍点]をした。すると新助はニヤリと笑い、二三度頷いて立ち上り、つづいて嘉次郎と右内とが立ち、こっそり部屋を出て行った。
雑談に余念[#「余念」は底本では「余年」]のない一座の者は、誰もそれに気がつかなかったが、床柱に背をもたせかけコクリコクリと居眠りをしていた、秋山要介一人だけが、この時ヒョイと眼をあげて、三人の姿を見送って、審しそうに眉をひそめた。
しかし眉をひそめただけで、声もかけず立っても行かず、また直ぐに眼を閉じて、長閑《のどか》そうに居眠りをつづけ出した。
2
何故要介がこんな所にいるのか? 福島の馬市が首尾よく終えるや、赤尾の林蔵と高萩の猪之松とは、和解したので親しくなり、打ち連れ立って故郷へ帰った。
そこで要介は門弟の浪之助へ、源女を附けて江戸へ帰し、自分一人だけが名古屋へ来た。
尾張家の重臣|諌早《いさはや》勘兵衛が、要介の知己であるからであり、せっかく福島まで来たのであるから、久々で名古屋へ出かけて行き、諌早殿にお目にかかり、お城下見物をすることにしようと、そこで出かけて来たのであった。
秋山要介の高い武名は、尾張藩にも知られていたので、今夜の宴にも勘兵衛と一緒に、要介は石河原家へ招かれた。
最初要介は重臣たちとまじり、別の部屋で談笑していたのであったが、磊落の彼にはそういう座の空気がどうにも窮屈でならなかった。
そこでそっと辷り出て、若侍たちのいるこの部屋へ来て、若侍たちの話を聞いているうちにトロトロと居眠りをやり出したのである。
夜は次第に更けて来たが、酒宴は容易に終りそうもなく、人々の気焔はいよいよあがった。
と、その部屋を出て行った、古巣右内という若侍が、蒼白《まっさお》な顔をして帰って来た。
「どうしたどうした」
「顔色が悪いぞ」
「今までどこへ行っていたのだ」
と若侍たちは口々に訊いた。
「面目次第もないことを仕出来《しでか》しまして」
右内は震える口で云った。
「新刀の試し切りいたそうと存じて、川上氏と金田一氏共々、大曾根の乞食小屋まで参りましたところ、一つの小屋の菰垂れの裾より、白刃ひらめきいでまして、あの豪勇の金田一氏が、片足を斬り落とされまして厶《ござ》りまする」
「なに乞食に金田一氏が……」
若侍たちは森然としてしまった。
それというのは金田一新助は、尾張藩の中でもかなりの使い手として、尊敬されている武芸者だからであった。
「そこで拙者と川上氏とで、金田一氏お屋敷まで、金田一氏をお送りいたし、川上氏はそのまま止まり、拙者一人だけ帰って参ったので厶るが……」と古巣右内は面目なさそうに云った。
一同は何とも云わなかった。
同僚が斬られたというのであるから、本来なれば出かけて行って、復讐すべきが当然なのであるが、相手が武士《ぶし》であろうことか、乞食小屋の乞食だというのであるから、討ち果したところで自慢にもならず、もし反対に討たれでもしたら――相手は随分強そうであるから、――討たれでもしたら恥辱の恥辱である。
で黙っているのであった。
この時要介はヒョイと立った。
そうして部屋を出て行った。
満月の光を浴びながら、秋山要介は大曾根の方へ、静かな足どりで歩いて行った。
まだこの辺りは屋敷町で、昼もひっそりとしたところなのであるが、更けた夜の今はいよいよ寂しく歩く人の足音もなく、歩く人の姿もなかった。
疑い合う兄妹
1
この夜大曾根の農家の一間に、兄妹の者が話していた。
主水《もんど》とそうして澄江《すみえ》とであった。
馬大尽井上嘉門の領地の、あの生地獄へ落された澄江が、どうしてこんな所に来ているかというに、あの夜暴民たちはその生地獄の上の、断崖へ押しよせて行き、生地獄にいる人々を助けようとして、幾筋となく綱を下ろした。
それへ縋って地獄の人々は、あの谷から引き揚げられた。
その中に澄江もいたのであった。
そうして暴動の人渦に雑って、嘉門の領地をさまよっているうちに、幸運にも義兄の主水と逢った。
その時の二人の喜びは!
互いの過去を物語り、巡り逢えた幸運を感謝しながら、井上嘉門の領地を遁れ、まず福島の宿《しゅく》へ来た。
そこで陣十郎の消息を尋ねた。
名古屋の城下へ行ったらしかった。
で、兄妹は連れ立って、名古屋へ来たのであって、この地へ来ると主水と澄江とは、とりあえず旅籠《はたご》に逗留して、陣十郎の行方《ゆくえ》を尋ねた。
が、城下はなかなかに広く、行方を知ることが出来なかった。
それにこれまでの艱難辛苦で、主水の躰も澄江の躰も、疲労困憊を尽くしていた。
静養しなければならなかった。
それに旅用の金子なども、追々少なくなって来たので、城下の旅籠を引払い、農家の離家を借り受けて、そこへ移って自炊をし、敵《かたき》の行方を尋ねると共に、身体をいたわることにした。
鳴きしきる虫の音に時々まじって、木葉の落ちるしめやかな音が、燈火の暗い古びた部屋へ、秋の寂しさを伝えて来た。
「お兄様ご気分はいかがですか?」
心配そうに澄江は訊いた。
「うむ、どうもよくないよ」
主水はこの頃病気なのであった。
と云ってもこれといって、心臓とか肺臓とか、そういうものの病気ではなく、気鬱の病気にかかっているのであった
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