やった。……しばらくじっと[#「じっと」に傍点]しているがいい」
――で、立ったままじっと[#「じっと」に傍点]していた。
間もなく麓の方へ走り下る、人の足音が聞こえてきた。
「ははあもう一人も逃げて行ったな」
「先生何です、逃げて行ったとは?」
「一人が一人を殺そうとしていたのだ。……それをわしが挫いてやったのだ。……殺そうとした奴が先に逃げ、殺されかけていた人間が、つづいて今逃げて行ったのさ」
「こんな暗中でそんなことが、先生におわかりになりますので?」
「活眼活耳さえ持って居れば、暗中であろうと、睡眠中であろうと、そういうことはわかるものだ」
主水は夢中で走っていた。
恐怖と不安と一種の怒りとで、彼の心はうわずって[#「うわずって」に傍点]いた。
彼にもう一段沈着があって、自分の危難を救ってくれたところの、恐ろしい掛声の主を尋ね、逢うことが出来たら自分と縁ある、侠剣の主人《あるじ》秋山要介と邂逅することが出来たのに!
4
が、しかし主水にとっては、そんな余裕はなかったのであった。
(陣十郎め、心が変わった。たしかに悪人に還元した。俺を殺そうとしたらしい。でなかったらあの呼吸――あの殺伐の気は出ぬはずじゃ! ……それにしてもカ――ッと鋭い気合が、あの時かかって俺の命を、瞬間の間に救ってくれたが、一体誰が掛けたのであろう?)
走りながらもそう思った。
(どっちみち俺は陣十郎とは、もう一緒には住みがたい。……では馬大尽井上嘉門の、賓客部屋へも帰れない。……どうしたらよかろう? どうしたらよかろう?)
ひた[#「ひた」に傍点]走りながらそう思った。
(カ――ッと掛かったあの気合! ……尋常の人間の掛けた気合と、全然別の恐ろしい気合だ! ……俺は命が縮まるかと思った)
こう思いながら無二無三に、麓をさして陣十郎も、走り走り走っていた。
(が俺は「逆ノ車」を、これで再度やり損なった訳だ! 再度の失敗! 再度の失敗! ……う――む再度の「逆ノ車」の失敗!)
これは洵《まこと》に彼にとっては、致命的の打撃と云わざるを得なく、そうして、事実彼にとって、再度の致命的の打撃なのであった。こうなってはヤブレカブレ、どいつであろうと誰であろうと、かもう[#「かもう」に傍点]ものか切って切って、……この鬱忿を晴らしてやろう)[#「)」はママ]
ひた[#「ひた」に傍点]走り、ひた[#「ひた」に傍点]走った。
偽善の巣窟であるところの、井上嘉門の領地内が、攪乱されたのはこの夜であった。
乳飲児を抱いた若い女が、放蕩の良人《おっと》を探し出そうとして、深夜に領地内を彷徨《さまよ》っている。
横を魔のように通る者があった。
「わ――ッ」と女は悲鳴をあげた。
もう女は斃れていた。
飼犬がどこかへ行ってしまった。それを目付けようと老いた農夫が、杖をつきながら通っていた。
「クロよ、クロよ、おいで、おいで」
こう云いながら通っていた。
その横をスルスルと通る者があった。
一閃!
刀光!
「わ、わ、わ、わ、わ――ッ」
老農夫は斃れ動かなくなった。
向こうでも切られこっちでも切られた。
人々は戸外へ飛び出した。
賭場荒れ
1
嘉門は決して人格者ではなく、又勝れた施政家でもなく、ただ家長という位置にあり、伝統的にその位置を利用し、圧制し専政し、威圧ばかりしていた人物であった。
で、隷属していた人々は、永い間心に不平と不満を、ひそかに蔵していたのであった。そういう人々が侵入者によって、この境地が攪乱された、その機に乗じ爆発した。向こうに一団、こっちに一団、露路に一団、空地に一団、林の中に一組、森の中に一組、到る所に集まって、議論し撲り合いし取っ組み合いした。
どうして、誰が、何のために、どういう騒動を起こしたのか、そういう真相を確かめようともせず、漠然とした恐怖、漠然とした憤怒、漠然とした焦燥に狩り立てられ、同派は組んで異端を襲い、同党は一致して異党を攻め、罵り、要求し、喧騒し合った。
「生地獄の人達を救い出せ!」
「ワ――ッ」と数十人が鬨の声をあげて、山の手の方へ押して行った。
「嘉門様にこの地から出て貰おう!」
「ワ――ッ」と数十人が屋敷を目掛け、無二無三に走って行った。
「人使いが荒すぎる」
「役にも立たないお客さんなどを、泊めて置くのが間違っている!」
「客人たちを追っ払え!」
「ワ――ッ」と大勢が一つに集まり、その客人の泊まっている家々へ、押し寄せて行って騒ぎ立てた。
悲鳴! 呻き声! 泣き声! 怒声!
客人達も狼狽して、家々を出て群集にまじった。
秋山要介も浪之助も、源女も主水もその中にいた。
嘉門も狼狽し恐怖したらしい。
玄関に立って途方にくれていた。
そこへ多四郎が現われた。
「逸見《へんみ》様何といたしましょう?」
「とり静める方法ござりますかな?」
「さあこう人心が亢《たかぶ》っていましては……」
「一時避けたがようござろう?」
お妻や東馬も怯えたように、その側《そば》に立って震えていた。
竹法螺が鳴り陣鐘が鳴り、やがて鉄砲の音さえした。
閉ざされた大門が破られそうになった。
嘉門と多四郎とお妻と東馬、四人を乗せた駕籠を守り、十数人の嘉門の家の子郎党が、騒乱の領内から裏山づたいに、福島の方へ走り出したのは、それから間もなくのことであった。
その翌日の午後となった。
林蔵の乾兒《こぶん》藤作は、フラリと自分の賭場を出て、猪之松の賭場の方へ足を向けた。
猪之松の賭場は上ノ段にあって、この夜客人で一杯であった。
2
藤作は酔っていた。
そうして彼は上尾街道で、澄江を危難から救おうとした時、猪之松の乾兒の八五郎たちのために、叩きのめされたことを忘れなかった。
いつか怨みを返してやろう――こういうことを考えていた。
さて福島へやって来た。
猪之松一家が上ノ段で、盛大に賭場をひらいていた。
「諸国の立派なお貸元衆が、ここには集まっているのだから、猪之松の方から手を出したら別だが、こっちから手を出しちゃアならねえぞ」
親分林蔵から戒められてはいたが、猪之松の賭場には八五郎もいる、こいつどうしたってトッチメなけりゃアと、酔いも手伝って乾兒の藤作、猪之松の賭場へ出かけたのであった。
内へ入って懐手をし、客人達の背後に突立ち、藤作は四辺《あたり》を睨み廻した。
板敷の上へ長蓙を敷き――これを中にして客人達がズラリと並んで控えていた。猪之松の姿は見えなかったが、代貸元として一の乾兒、閂峰吉が駒箱を控え、銀ごしらえの[#「銀ごしらえの」は底本では「銀ごしらへの」]長脇差を引きつけ、正面の位置に坐っていた。
中盆――即ち壺皿を振る奴、それが目差す八五郎であったが、晒の下帯一筋だけの、素晴しく元気のいい恰好で、盆の世話を焼いていた。
勝ちつづけた客人の膝の前には、駒が山のように積まれてあり、こいつはニコニコ笑っている。
馬持、山持、土地の大尽、どれを見ても客は立派なもので、いかがわしい手合などは一人もいなかった。
藤作は自分で張ろうとはせず、何か因縁をつけてやろうと、いつまでも突立って眺めていた。
その藤作が入って来た時から(厭な野郎が舞い込みやアがった)
と、峰吉も八五郎も思ったが、まさか帰れとも云いかねて(障るな触れるな、そっと[#「そっと」に傍点]して置け)
こう考えて眼まぜ[#「まぜ」に傍点]で知らせ合い、声もかけず勝負をつづけて行った。
と、不意に藤作は怒鳴った。
「勝負待った、イカサマあ不可《いけ》ねえ!」
同時に飛び出し盆蓙を掴むと、パーッとばかりにひっぺがした。
「野郎!」と飛び上ったは八五郎。
「賭場荒らしだ――ッ」と客人たちは、総立ちになって右往左往した。
3
「イカサマとは何だ、この野郎!」
やにわに八五郎は飛びかかった。
その横ッ面をポカリと一つ、藤作は見事にくらわせたが、
「イカサマだ――ッ、イカサマだ――ッ! ……高萩の猪之の賭場の壺振、八五郎はイカサマをして居りやす! ……お客人衆、イカサマだ――ッ」と叫んだ。
「藤作!」と腹に据えかねたように、怒声をあげると、閂峰吉、長脇差をひっ掴み、立ち上るとツカツカと前へ出た。
「見りゃア手前は赤尾の藤作、まんざら知らねえ顔でもねえ。事を決して荒立てたくはねえが、高萩一家が盆割の場所で、イカサマと云われちゃア、どうにも我慢が出来にくい。さあ云え云えどこがイカサマだ!」
「何を云やがる、イカサマだ――ッ、賽もイカサマなら盆もイカサマ、高萩一家は、イカサマだ――ッ」
こう藤作は叫んだものの、実はイカサマを発見して、それであばれ出したというのではなく、ただ何かしらあばれてやろう、あばれて八五郎をとっちめてやろうと、そう思って仕掛けた賭場荒らしだったので、そう峰吉に突っ込まれては、イカサマの証拠をあげることなど、勿論することは出来ないのであった。
イカサマだ――、イカサマだ――、とただ怒鳴った。
「野郎」と峰吉はいよいよ怒り、
「さては野郎賭場を荒らし、賭場銭さらいに来やがったな!」
ここで嘲笑い毒吐いた。
「赤尾の林蔵は若いに似合わず、万事に行届きいい親分だと、仲間内で評判がいいと聞いたが、乾兒へロクロク小使さえくれず、懐中《ふところ》さみしくしていると見える。乾兒が場銭をさらいに来たわ! ……汝《うぬ》らに賭場を荒らされるような、高萩一家と思っているか! ……さあみんなこの野郎を、袋叩きにして追い返せ!」
声に応じて八五郎はじめ、高萩身内の乾兒五六人、ムラムラと寄り藤作を囲み、撲り蹴り引きずり廻した。
「殺せ殺せさあ殺せ! 骨は親分が拾ってくれる! 殺せ殺せさあ殺せ!」
藤作は大の字に仆れたまま、多勢に一人力では敵《かな》わず、ただ声ばかりで威張っていた。
そいつを高萩の乾兒達は、戸外《おもて》へ引き出し抛り出した。
「ナニ藤作が猪之の賭場で、間違いを起こして袋叩きにされたと」
料理屋の奥で酒を飲んでいた、赤尾の林蔵はこれを聞くと、――乾兒の注進でこれを聞くと、長脇差をひっ[#「ひっ」に傍点]掴み、
「こうしちゃいられねえ、みんな来い!」
取巻いていた乾兒を連れ、自分の賭場の方へ走って行った。
4
高萩の猪之松も料理屋の座敷で、四五人の乾兒たちと酒を飲んでいたが、乾兒の注進でこの事件を知ると、顔の色を変えてしまった。
「云うことに事を欠いて、イカサマがあると云われちゃア、袋叩きにもしただろうさ。……が、相手が悪かった。日頃から怨みの重なっている、赤尾の林蔵の身内だからなア。……こいつアただではおさまるまい。……ともかくも旅籠《やど》へ引き上げろ」
そこで旅籠《はたご》へ帰って来た。
林蔵も一旦賭場へ行き、負傷をしている藤作へ、すぐに応急の手あて[#「あて」に傍点]を加え、板で吊らせて旅籠へ運び、自分も旅籠へ帰って来た。
「藤作のやり方が悪かったにしても、場銭をさらいに来やがったと、こう云われては腹に据えかねる……そうでなくてさえ[#「さえ」は底本では「さへ」]怨みの重なる、高萩一家の奴原《やつばら》だ、この際一気に片づけてしまえ!」
なぐり込みの準備をやり出した。
という知らせが猪之松方へ行った。
「もうこうなっては仕方がない、こっちからもなぐり[#「なぐり」に傍点]込みをかけてやれ」
竹槍、長脇差、鉄砲まで集め、高萩一家も準備をはじめた。
驚いたのは他の貸元連で、小金井の半助、江尻の和助、鰍沢《かじかざわ》の藤兵衛、三保ノ松の源蔵、その他の貸元ほとんど一同、一つ旅籠へ集まって、仲裁《なかなおり》の策を相談した。
その結果小金井の半助が、猪之松方へ出かけて行き、そうして鰍沢の藤兵衛が、林蔵の方へ出かけて行き、事を分けて話すことになった。
「赤尾の身内の藤作どんとやらが、酒に酔っての悪てんごう[#「てんごう」に傍点]、あんたの賭場にイカサマがあると、そう云われちゃア高萩のにしても、さぞ腹が立つではありましょうが、日和《ひより》も続
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